こわれもの注意

──宇宙飛行士は、プールのなかで訓練することもあるんだ。

 めずらしくロイが天体以外の話をするので、ダニーはソファの隣に行儀悪く横座りをして、耳を傾ける態勢に入った。ちょうど夕食と就寝の間にある、手持ち無沙汰な時間の過ごし方を探っていた二人は、最近のところ、ソファに並んでデカフェを飲みながらどちらともなく話をすることにしている。

 あるときはダニーが、出掛けた先の土地で交流した人々の話を。あるときはロイが、来週の木曜日に観測出来るという流星群の話を。それぞれ仕事も趣味も違うので、話題はいつも被ることがない。自分では知り得なかった、物事の新しい視点を手に入れた気分で、互いの感性を通して思考の旅をする。

「宇宙空間に気圧はないけれど、プールのなかでは水圧が掛かる。宇宙服を着たままでも身体に圧力を感じて動きづらくなるんだ。宇宙空間では、ほんのわずかな力を加えるだけで何処までも進んでいけるのに、プールのなかでは上手く進めない。でも、船外活動をこなすための筋力をつけるにはいい運動になる。知ってるかな。船の外壁から放り出されないよう、ハンドグリップをしっかり握って移動する僕らは、握力がとても強くなるんだ」

 興味のあることに関しては饒舌になるロイの口から、とつとつと言葉が零れていく。もしかすると、職場で喋る割合よりも、自宅でのそれの方が多いかもしれない。喋り方を忘れないよう発声するみたいに、彼は途切れることなくプールでする訓練のことを話してくれた。

「へえ、じゃあおれの手を握るときはお手柔らかに頼むよ」
 気の利いた返しが思いつかなくて、ついぶっきらぼうな言い方になってしまう。それでも、ロイは顔をしかめるどころか、すこし口角を緩ませて微笑みの表情で応えた。

「ダニーの手だったら、グリップよりもっと強い力で握ってしまうかも」
 ちょっとした冗談でも言うみたいな、いたずらっぽい口調。どれくらいの握力があるのか、数字を聞いたわけではないので、想像の測定器で測ってみることにした。放り出されたら生きて帰ってこられないかもしれない場所で活動する男の握力とは、いったいどんなものだろう。ダニーは、空になったマグを両手で包むように持つ。もし、陶器製のこいつを握って割れるほどの力だったなら──。

 ふと、ロイの手首を見てみる。自分よりすこし細い気がして、どきっとした。非力そうに見えても、この手を命綱に仕事をしているのだと思うと、途端に逞しく見えてくるから不思議だった。

「おっかねえな。骨が砕かれちまうかも」
 お返しにと冗談を込めた台詞は、ロイにしてみると想定外のものだったらしい。しゅんとわずかに眉根が寄る。「そんなこと出来ない」と真面目に応えて、「君の手を握ったら放したくなくなってしまいそうで、つい力がこもるだろうな、と言いたかったのだけれど……だめだな、僕はどうも私的な会話が上手くないみたいだ」と、決まり悪そうに言った。

──なんか、かわいいやつ。
 そう感じてしまったら、ちいさく吹き出してしまい。

「なあ、いまも手とかその、握りたいと思ってる?」
 好奇心で尋ねてみると、ロイはダニーの指にそろそろと触ってきた。危なくないよ、と友好の気持ちを表す生き物みたいだった。マグを持ったままの右手に重なる体温はあたたかくて、おそるおそる指を握り込む力はやさしい。焦れったくて、ダニーは自分に触れるロイの手を、もう片方の手で不意に掴んだ。

「壊れ物じゃねえんだから」
 ぐっと力を込めて握ると、ロイは「いたいよ」と眉を下げて。それなのに、口の端はすこし上がっていて。

「お前、すぐどっかふわふわ飛んでっちまいそうだから、おれの手放すなよ」
 にやりと笑って気障な台詞を吐いてみたら、彼は嬉しそうに頷いた。