Eat me, Drink me. - 1/5

01. ウィーン風パンケーキ

 

 朝、トニーが起きてみると、キッチンに人の気配があった。おそるおそる確認してみると、ソロの後ろ姿だった。朝食を作っているらしく、かちゃかちゃとボウルに入れた何かを混ぜているところだった。

「おはよう、トニー」
「・・・・・・おはようございます」

 いったい、いつの間に来ていたのか、わからなかった。この人は神出鬼没だ。猫のように、するりといなくなったかと思えば、するりと人の生活に入り込んでくる。

「やあ、今朝はパンケーキを焼こうと思って。次の任務までけっこう間があるから、今回はしばらく一緒にいられるよ」

 いつからか、この家に置かれるようになっていた自前のエプロンをつけて、ソロはどろりとした生地をフライパンに流して焼き始めていた。じゅう、といういい音。

「合い鍵を渡した覚えはないんですがね」
「そんなもの必要ないだろう」

 おれを誰だと? 大泥棒、ナポレオン・ソロ。
 得意げにふふんと鼻を鳴らす彼を、トニーはあきれたように見つめた。手慣れた手つきで調理をすすめる様子。自分はまだ顔も洗っていないというのに、ソロは髭剃りも身支度もすませているようだった。完璧な男。どうして自分のような者にかまうのか、ちょっと分からない。

 トニーは身支度をすませにバスルームへとこもった。そこには、ソロの洗面道具一式がブランド物のバッグの口から覗いて置かれていた。しばらく一緒にいられる、というのは本当らしく、つまり、しばらく宿代わりにされるだろうことも察した。

 自分のセーフハウスに行けばいいのに、ソロはどうしてかトニーの元へやってくる。突然いなくなったり、突然訪れることには慣れたが、一緒に過ごすことにはまだ慣れなかった。いや、慣れたくなかった。彼が出て行ったときのことを思うと、慣れてしまうのがこわいのかもしれなかった。

「馬鹿みたいだ」

 何かを期待しているのだろうか。
 トニーは、ソロとの関係をはかりかねていた。同じ職場に勤める先輩と後輩。それが、いつの間にか肉体関係を持つようになって、勝手にふるまわれる手料理をごちそうになって。餌付けされる愛人、のようなものだと思っていた。ただ、いまの距離感が嫌なわけではなく、はっきりしない関係を愉しんでもいる。気楽でいい。けれど、最近はどこか足りない気もしていた。

──いや、そんなもの。

 トニーは浮かびかけた思いを払拭するように、冷たい水で顔を洗うと、着替えをしに寝室へと戻っていった。

 ダイニングへ行くと、すでに朝食の準備がすんでいた。大きな皿に盛られた、一口大のパンケーキの山。雪のような白い粉砂糖が掛かっている。添えられているのは、すもものジャムとりんごのジャム。そして、お好きにどうぞ、とばかりにこんもりと盛られたホイップクリーム。ウィーン風パンケーキだった。

「オーストリアに行ってきたんだ。向こうではパンケーキを焼きながら切って、こんな風に盛り付けるんだよ。おいしかったから、君にも食べてもらいたくて」

 そう言ってソロは、席に着いたトニーに紅茶をサーブする。いつもはインスタントのコーヒーを飲むのだが、今朝はとことんウィーン風に行きたいらしい。普段、トニーは紅茶を飲まないので、この茶葉は彼が買ってきたものだろう。土産かもしれない。ちょっと変わった香りのフレーバーだった。

「豪華ですね。いただきます」
「どうぞ」

 遠慮なく一口食べると、ふわり、あたたかな小麦粉の香りが立つ。ふわふわとした食感の生地は、軽くていくらでも食べられそうだった。トニーは、素直に「美味しい」と口に出していた。
 もったりとした八分立てのクリームとよく合う、甘さ控えめの生地。すもものジャムをつけて食べると、ほんのりと酸味が加わって、また違う味になる。りんごのジャムにはシナモンが混じっていて、食欲をそそる。山になっていたパンケーキは、すいすいとトニーの胃に収まっていった。

「そんなに次々食べられると、張り切って作った甲斐があったね」

 何が嬉しいのか、ソロはにこにこと微笑みながら、トニーの食べる様子を眺めて紅茶を口にしている。あなたは食べないのか、と尋ねると、君を見ているだけでお腹いっぱいだよ、などという訳の分からない答えが返ってきた。

 ソロはいつもこうだ。人にはたくさん食べさせるくせに、自分はあまり食べないで、こんな風に観察しては嬉しそうにしている。それはそれは優しそうな目で。恋人を見守るように。トニーはこの、見られながら食事をすることにも慣れてしまったが、いつも適当に目線を流していた。けれど、今朝はなぜだか放っておけなくて。

「はい。あなたも一口どうぞ」

 つい、フォークでひとかけら、ソロの口へとパンケーキを運んでしまった。彼の、びっくりしたような顔。突然目の前に差し出されたものを、どうしたらいいか分からないような。

「食べないんですか。美味しいですよ」
「いや、君にこんなことされるとは・・・・・・」

 ふふ、と笑って、ソロはパンケーキに食いついた。といっても、完璧な男らしく、上品にはくりと口にしたのだが。
 すこし伏せられた顔を正面から見ていると、まつげが長いな、とか、一糸乱れぬオールバックの髪がつやつやとしているところとか、すっと通ったかたちのよい鼻筋とかが目に入って、ほんとうにきれいな男だと思う。

「どうしたんだい」
「・・・・・・いえ、」

 言えない。見惚れていただなんて。
 トニーはごまかすように紅茶を飲んだ。変わったフレーバーが口いっぱいに広がる。異国の香り。彼に似合いの、上品な香り。

 どうしてソロは自分にかまうのだろう。
 いつもと違う朝食の光景は、トニーの心をすこしだけ乱していた。自分と彼との違いが浮き彫りになって、どうしてか距離を感じてしまう。テーブルを挟んでほんのわずかな、手の届く場所にいる男に距離を感じるだなんて。

 それは、最近感じる、「どこか足りない」という気持ちに通じていた。もっとソロを知りたい。彼と一緒にいたいという気持ち。抱いてはいけない。期待してはいけない。そう思えば思うほど、焦燥にかられる。もどかしい気持ち。

 トニーは、もう一口、パンケーキを口にした。甘くて、ふわふわと軽やかで、口の中で夢のようにほどけていく。まるで、自分と彼の逢瀬のような──。

「好きです」

 それはちょっとした好奇心だった。こんなことを言ったらどうなるかな、という。「好きです、この味」とおまけのように付け足して、まだ踏ん切りのつかない気持ちを食事の感想に混ぜてすこしだけ吐露する。気楽でいいなんて思っていたけれど、そろそろ、もうすこし先に進みたい。

 ソロに気づかれただろうか。彼は、こちらの思惑など気にかけていないような、どちらともつかない、いつもの完璧な笑みで「それはよかった」と言った。

「また作ってくださいね」

 すくなくとも、次の約束は取りつけた。またいつかいなくなるあなたを、ほんのひととき縛る約束。微笑んで「もちろん」というソロに、トニーはすこしだけ安心して、皿に残るパンケーキの最後のひとかけらを口にした。