僕は運が悪いんです、と返されてまばたきをする。
問診のはじめに「どこか調子の悪いところはありますか」と聞いたら、彼はしおしおと萎れた葦みたいに背をちょっとまるめてそう言った。
「運、ですか」
「そう、運が悪い。すこぶる悪い」
せき止められていた水が溢れるように、彼の運に関する説明が続く。それによると、入った店が爆発したり、車に人が落ちてきたり、あげく出会い頭に銃で撃たれたり。おおよそ一般市民であれば、一生に一度出くわせばじゅうぶんな出来事にぽんぽんと当たる。しかし、「嫌な当たりだなあ、もっと宝くじとかそういうのに当たればいいのに……」とのんきな口調で締めくくる当人に、嘘をついている様子はない。
「運の良かった出来事は、何か覚えていますか」
「運の、良かった? もしかして認知バイアスの話をしようとしてる? 無駄だよ、手帳に箇条書きで並べたって僕の不運は圧勝。なにせ数えたこともあるからね」 「なるほど」
なかなかに意固地な様子だけれど、ひとつの考えに凝り固まった患者というのはままいる。丁寧にカウンセリングを重ね、信頼関係を築いていくうちに問題を解決していくのがセオリーだ。バリーは、手元のカルテに記載された彼の情報をちらっと確認する。
──どうも、嘘っぽい。 というのが第一印象だった。 ありふれた名前、無難な経歴、職業は探偵の下請けだと言っていたけれど、それにしては裏稼業の人間特有の気配があった。
バリーの開業しているカウンセリングオフィスは、ちいさいながらも都心の清潔感あるビルの三階に位置する。ただし、家賃が安いかわりにエレベーターがないので、開業当初はなかなか人が来なかったし、来たとしても、階段を三階分昇ってまで診察を受けたい人間というのは、心身の不調以外にも何かしら事情を抱えていることがあるらしい。
いつしか、ここには「そういう稼業」の人間がちらほら訪れるようになった。もちろん、はっきりと職業を口にする患者はすくないが、いないわけでもない。望む望まないに関わらず、バリーは「そういう」人間を見分けられるようになっていった。
──たぶん、彼もそうだろうな。
最後の仕事で撃たれてから、しばらく休業して引きこもっていたという彼は、ここに来るまでにもいろいろあったのだと続けた。
「駐車場が空いてなくて、近場も探したけど全部埋まってたんだ。それで、予約時間に間に合わないかもって焦ってたら突然飛び出してきた猫を轢きかけるし、びっくりしてハンドルを切ったら反対車線に入っちゃって。やばい正面衝突する! と思ったけど、まあ助手席のドアが外れるくらいですんだからよかったよ」
「助手席のドアが……」
「そう。だから貴重品は全部持ってきた。なにせ、鍵を掛けてもドアがなくちゃ盗みたい放題だろ」
「えっと、車自体が盗まれる可能性も、ありますね」
「あっ」
彼は、ほんとうにいまやっとその事実に気づいたという顔で、目をまるくして絶句してから、さらにしおしおと萎れて「ぎゅう」みたいな声を絞り出して黙ってしまった。罪悪感。もしかして、泣きそう? うるうると涙をたたえはじめた彼の瞳を覗き込んで、はじめてその色が西海岸の海のようにきれいだと気づいた。
患者のひとりに個人的な感情を抱くのはよくないというのに、バリーは気づいたら子どもにするように彼の頭をそっと撫でて、こう言っていた。
「いまから、確認しに行きましょうか」
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あの日のことを、レディバグは一生忘れられない。 自分の運の悪さに辟易して、心身ともに消耗して、もう裏稼業から引退でもしようかと思っていたとき。それでもマリアに相談したら「あんた、カウンセリングが必要かもね」と言われ、近所ですぐにかかれるカウンセリングオフィスに行ったら、その人に出会ったのだ。
バリー。
レディバグより一回りは年下のカウンセラーは、背が高く、けれど威圧感のない清廉な印象の男だった。物腰は優しく、口調も丁寧。ちょっとのんびりした表情の顔がこちらを向くと、なんだか安心感があっていい。
しかし、なにより、あの初診日に駐車場まで一緒に車を見に行ってくれた親身さが忘れられない。結局、車は停めた場所になかった。盗まれたのだ。落ち込みが地の底まで行きそうになっていたら、バリーは「大丈夫、わたしが家まで送りましょう」と慰めてくれた。
それが憐憫からだったしても構わない。若い頃から裏稼業にたずさわっていたレディバグにとって、バリーの善意は新鮮で信じられないような出来事で、つまり胸にぐっときたのだった。カウンセリングに通うのが楽しみになり、胸の内を吐き出してもマリアみたいに「考えすぎじゃない?」と突き放さないで、どうしたらこの運の悪さと付き合っていけるかアドバイスしてくれる。
──もしかしたら、仕事に復帰出来るかもしれない。
なんだかんだ言って、下請けとはいえ裏稼業の人間は簡単にはここから抜け出せないのだ。また裏通りの仕事に戻るとしても、バリーのおかげで気分は上々。マリアからの連絡を待たずに、こっちから仕事があるか聞くのもいいかもしれない。
そうして、レディバグは東京駅に立つ。
ブリーフケースを盗んで次の駅で降りるだけの仕事。もし上手く行ったら、次のカウンセリングでバリーに報告しよう。復帰のお祝いをしてもらえるかも。あの物腰柔らかい口調で「よくがんばりましたね」と言ってもらえたら、僕はなんだって出来る気がする。
はりきって路地を歩きながら電話を掛ける彼は、まさか運命が新幹線から降ろしてくれないとは思わなかったが、それはまたべつの話。