わたしを酔わせないで

──金曜日はカレーだから、一緒に。

 という決り文句もいまさらいらないくらい、ドンはコブの家で夕食をごちそうになるのが習慣になってしまった。きっかけはなんだったか。たしか、彼の子どもが車道に飛び出したのを助けたのがそうだ。そのときのコブは、ドンのことなど見えていないかのように顔面蒼白で子どもを抱きしめ、しばらく震えがとまらなかったのを覚えている。まあ、すぐに気づいて礼を、と言って聞かなかったのだが。

 それから、家が隣り合っているのをさいわいと、コブはなにかとドンの世話を焼くようになった。家事だのなんだのまで代わりにしようとするのをたしなめ、最終的に食事で手を打ったのが何ヶ月か前。もうとっくに恩なんか返し尽くしているだろうに、ドンもコブも「もうやめよう」とは言わなかった。コブの子ども含めた四人で囲む食卓に慣れてしまったし、なにより食べることが楽しいと思えるようになったからだ。

 ドンのそれまでの食事といえば、出来合いのものだの簡単な調理で出来るものだので、たとえ食べても味がする気はしなかった。ひとりでとる食事に慣れていたつもりだったのに、コブの家に招かれるようになってからこっち、もとの生活には戻れないだろうと思うくらいだ。
 やめなければ、と自制心が働くのに、どうしてかいつも足は彼らの家に向かってしまう。今夜も、金曜はカレーだから、と話すコブの声を思い出して、そちらに向かってしまうのだった。

「あの、今日はふたりだけなんだ」
 すこし申し訳なさそうな口調でコブが言う。
 なんでも、子どもたちは友だちの家へ泊りがけで遊びに行ったそうで、帰るのは明日の午後らしい。

「いや、俺は構わないが、あんたはいいのか」
「えっと、ひとりだと多いから、量が。その、ぜひ」

 しどろもどろに答えるコブは、相変わらず言い訳を考えるのが下手だ。いつもドンを誘うのに試行錯誤しているのがかわいらしい。そんなに言い訳を作らなくても、もう逃げやしないのに。しかし、子どもたち抜きでふたりきり。はじめてのことだった。ほんのすこしだけ緊張のようなものを感じる。コブはどうだろうかと見ると、彼もすこしばかり緊張した様子で表情が固い。互いにすこし気まずいようなかしこまったような空気のなかで食事をした。
 コブは始終時計を気にしていたので、すんだらさっさと帰るべきかと腰を上げると、「待って」と声が掛かる。

「その、子どもたちがいないから……」
 彼が出してきたのは、年代物のウイスキーだった。
 普段は飲まないと言っていたので、わざわざ買って来たのだろう。ドンもわけあって家に酒の類はないが、せっかくコブが精一杯のお誘いをしてきてくれたのだからと、ご相伴にあずかることにした。いい値段のしそうなものだけあって、口当たりがいい酒はするするとふたりの喉を通り過ぎていく。飲み過ぎてしまうな、とドンが一息ついている横で、コブはかなりハイペースで飲んでいる様子だった。

「おい、ぶっ倒れるぞ」
 彼がどれだけ酒に強いのか分からなかったが、思わずグラスを取り上げてとめてしまう。しなだれかかるようにグラスを追うコブに、かなり酔っているなと水でも持ってこようとしたときだった。

「……今夜は、帰らないで」
 ドンの腕にしがみついて、涙声で呟く一言。
 コブは、青い瞳を潤ませて「今夜は、一緒にいて」とまた呟いた。どういう意味だと聞けば、そういう意味だ、と言う。やっぱり酔っているんじゃないかと思えば、「違う、お酒の力は借りたけど、その、本心なんだ」とコブは話し出す。
 自分の命よりも大事な子どもを助けてくれたときの感謝だとか、夕食に誘うようになって気になり始めたドンの生活のことだとか、しだいに惹かれるようになったこころだとか。そして、何を順序立てて考えてみてもこの気持ちは整理がつかなくて、ずっとつらかったのだと。やっと吐き出せて、けれど、もうすでに自分が情けなくて後悔しそうだとか。

「たしかに。酒に頼るなんざ、感心しないな」
 もたれかかった肩がぎくりと跳ねる。
 見ると、コブは眉を下げて泣きそうになっている。まったく、どうして自分がそんなことをしたのか分からなかったが、ドンは彼の目尻に口づけて涙を拭っていた。驚く顔をかわいいと思ってしまったのは、もう手遅れなんだろうか。

「むかし、酒で失敗したことがあるから、いまは応えてやれない。またシラフのとき、あんたの気持ちに返事をする」

 そう口にして、まるでこれでは「はい」と頷いたようなものじゃないかと思ったが、ドンはまあいいと頭を掻いた。うるうるとまた泣きそうになっているコブの前髪をすくい、耳に掛ける。かたちのいい額にもう一度だけ口づけを落として、「だから、泣きやめ」となだめる。彼はもちろん泣きやみはしなくて、大粒の涙をぽろりとこぼし、嬉しそうに微笑んだ。それがかわいいと思ってしまって、ドンはやはり手遅れなんだと実感し、腹をくくって口説き文句を考えてしまうのだった。