あるイタリアの浜辺。
かつて新婚旅行で訪れたことのあるナポリのリゾートへ、ジャックは妻と滞在する予定であった。しかし、出発前からひっきりなしに夫をなじる妻の調子にまいってしまった彼は、ホテルに着いてすぐ「切符を買うから頼む、帰ってくれ」と彼女を追い出してしまった。妻はその場で離婚を宣言し、これで何回目かになるジャック・コンラッドの結婚生活は終止符を迎えた。
かしましい元妻の去った部屋はしんと静まり返って、バルコニーから波の音とバケーションで訪れているであろう観光客のきゃらきゃらと騒ぐ声だけが通り過ぎていく。ああ、静寂とほどよいざわめきのなんと心地よいことか。久方ぶりの開放感にジャックは酒を開けるのも忘れ、ベッドに倒れ込んでしばし惰眠を貪ることにした。
どれくらい時間が経ったのだろう。
まどろみに沈んでいたジャックは、ココン、という小気味のいいノックで意識を浮上させた。外はまだ明るいが昼ほどの輝きはなく、時間は午後も後半に差し掛かっていると見た。いったい誰がなんの用だというのだろう。むっくりと起き上がってドアを開けてみる。が、誰も居ない。外に出てあたりを見回しても、とくに人影はない。おかしい。夢でも見たのであろうか。仕方なく室内に戻り、ドアを締めて鍵を掛ける。せっかく起きてしまったのだから荷解きをしようか、と荷物のある部屋へ足を向けたそのとき。
ココン。
同じ小気味のいいノックの音。
はて、どうやら夢ではなかったらしい。もう一度ドアを開けて確かめてみる。が、やはり誰も居ない。いたずらか、はたまた疲れからの幻聴か。ふたたびドアを締めて鍵を掛け、ふと、このままドアのこちら側で待っていたらどうなるかと考えた。
ジャックは、気配を消してじっと次のノックを待つ。
はたして、二度あることは三度あるとでもいうように、ココン。みたびノックは来た。今度はすぐさまドアを開けてみると、なんとそこに居たのはジャックの膝に届くかといった幼さの少年であった。
「あーっ!」
その子は正体が割れたと知ると、大声を上げてから、さーっと走って廊下の角を曲がった先へ逃げてしまった。なんてすばしっこい子なんだ。これでは、なかなか姿を捉えられないわけだ。いたずらで起こされた怒りなど湧くはずもなく、ただただ感心してしまった。元気な子だったな。思わずといった叫び声が、まだ耳にきんと残っていた。
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「あの、スイートルームにお泊りの方でしょうか」
夕食を終えて一服していたカフェテラスの席で声を掛けられる。
アメリカであれば、食事の間であろうが銀幕の大スターに声を掛けてくる人間は山ほどいるが、ここナポリでのジャックの知名度はそこそこであったし、ラグジュアリーな富裕層向けのリゾートで休暇に水を差す連中はほぼいないはずだった。
見れば、ファンでも勘違いの連中でもなさそうな男が、申し訳ないといった表情でこちらを伺っている。いや、普通の男ではない。ひと目で洗練されたと分かる上品な白のスーツ、ぴったりと撫でつけたブロンドの髪、緊張のせいかすこし紅潮して見える頬はまだ年若い青年のまろみを帯びていて。なによりも、地中海の濃い青さを透かしたような、美しく深淵な瞳に釘付けになってしまう。
「先ほど、この子が……その、あなたの部屋にいたずらをしたようで」
と、男の後ろから面白くなさそうな表情で出てきたのは、あのノックの主こと幼さの残る少年であった。
「わたしはニューヨークから来たジェイ・ギャツビーと申します。うちの子どもがたいへんなご迷惑をお掛けしました。お詫びに、滞在中でも帰国してからでも、できることならなんなりとご希望を申しつけてください」
あなたもアメリカの方ですよね、俳優の──と続く言葉を軽く遮り、ジャックも自分の名を名乗った。そして、迷惑だなんてとんでもない、子どもが元気ではしゃいでいるのはいいことだと笑って許した。その様子にほっとした顔を見せたジェイは、しかし、次の瞬間にはそわそわとして「けれど、それでは僕の気がすまない」と落ち着かない様子だったので、「でしたら、滞在中の夕食をともにしましょう。いや、到着して早々、妻と離婚したものだからすこし寂しくてね」と提案することにした。彼は最初、「そんなことでいいのですか」ときょとんとしていたが、すぐに「分かりました。ではさっそく、デザートはもう頂きましたか?」とウェイターを呼んで席を用意させはじめた。
それにしてもいやはや、同席した彼の子どもの甘えん坊ぶりたるや、思わず笑ってしまうほどひどかった。「甘いものが苦手でなければ、ここのスフォリアテッラは格別ですよ」とジャックに話しかける彼をさえぎり、「ジェイ、おれアイスも食いたい」「なあ、ジェイのやついっこちょうだい」「のどかわいた。ジュースは?」と、ひっきりなしに会話を邪魔立てしようと画策している。 知らない男に父親、というより母親を取られまいとして警戒する息子の調子だ。
「申し訳ない……タイラー、もうすこし大人しくしていようね」
「いや、構わないよ。仲のいい親子で羨ましいかぎりだ」
ジャックが余裕を見せると、タイラーは面白くなさそうな顔をしてつん、とそっぽを向いてしまう。生意気だが、男の子というのは多少生意気なものだし、子に手を焼くジェイを見ているのはなかなか興味深かった。若くしてもうけた子なのだろう。どう扱っていいのかまだ手探りでいる様子だ。奥さんは一緒に来ていないのだろうか。紹介されるまで聞かない方がいいだろうか。
ジェイの隣に立つ美しい女性を想像してみる。
ちくり。
ともすれば気づきそこねてしまいそうなほどちいさな痛みが胸を刺した。ジャックは、その痛みの理由を知っている。けれど、ジェイは父親だ。となれば、母親がいるということだ。そしてその母親はジェイの──その先をごまかすように、ジャックはことさら明るい口調で喋った。ジェイはジャックの痛みに気づいていないようだった。けれど、タイラーの母親の話は出なかったし、彼の妻もこのカフェテラスに登場しなかった。それだけが救いだった。
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滞在三日目にして、ジャックは自分がジェイに惹かれていることを認めた。
「おそいんじゃねえの」
隣で砂のトンネルを作っているタイラーが、呆れ顔で突っかかってくる。
浜辺でスパークリングウォーターを啜りながら、ジャックはジェイが泳ぐ姿を眺めていた。タイラーから目が離せないのでこの夏はまだ海を泳いだことがない、とこぼしていたので、ベビーシッター役を買って出たのだ。そして、初日にしてジェイへの気持ちを見抜いていたタイラーには、もうなんでも相談するようになっていた。とは言っても、奥さんのことを聞くのは憚られた。ジェイが話さないことをタイラーから聞くのはマナー違反であると感じたからだ。
「そうは言ってもね、大人というのは新しい恋を自覚するのに慎重にならざるを得ないんだよ」
「大人とか子どもとかカンケーねえだろ。おくびょーもの」
「君は胸を抉るようなことを言うねえ」
「あ、でもそういえば、おっさんてまだちゃんとリコンしてないんだっけ。じゃあ、ジェイのことわたせねえなあ」
タイラーの言うとおり、宣言はされども書類の手続きやら裁判やらが控えているので、ジャックは正式にはまだ元妻と婚姻関係にあった。いまこの状態でジェイとどうにかなろうとしたら、それは不倫である。なかなか痛いところを突いてくる子どもにため息が出た。
今夜も、ジェイと(そしてこの子と)夕食を囲む。
はじめのうち、ジェイは忙しなく喋り、気を利かせ、ジャックをどうにか楽しませようと躍起になっていた。けれど、ここはリゾート地。彼も休暇で来ていたに違いない。くるくるとよく回る舌を黙らせるために、あるときジャックは運ばれてきたばかりのレモンソルベをひとすくいすると、ジェイの口に押し込んだ。いきなり冷たいソルベを食べさせられた彼はびっくりして、目をまんまるにさせたまま硬直してしまった。 ジャックがスプーンを戻し、「ほら、溶けてしまうよ」とジェイの分のソルベを指すと、賢い彼はその意図を汲んで「すまない……いや、ありがとう」と落ち着き、それ以降、リラックスした様子で滞在を楽しんでいた。ベビーシッター役を任せてくれることなど、その証拠である。すこしは自分にわがままになってほしい。なにせ、彼はどうやらはりきりすぎる傾向にあるので。
「やあ、様子はどうかな」
海から上がったジェイが、声を弾ませてやって来た。
いつもはぴったりと撫でつけられたブロンドが濡れて崩れ、くるりとうねりながら額に貼りついている。すかさずタオルを渡すタイラーの横で、ジャックは日差しの角度によってきらきらときらめくアクアマリンの瞳に見惚れていた。初対面のときからこの美しい輝きに惹かれていることを、いまなら正直に白状しよう。
ジェイはジャックが見つめ続けているのを不思議にも思わないようで、タイラーの作ったトンネルに手を入れて完成度の高さを褒めそやしていた。きっと、彼は見られることに慣れているのだ。
美しすぎる人は、その美しさゆえに他人から向けられる視線に鈍感でいないと精神の耐え難い苦痛を味わうことになる。人から見られる仕事に就いているジャックも同じなので、よく分かる。しかし、いまだけは僕の視線に敏感になってほしい、と願ってしまう。
結局、そのあとの夕食でもとくに進展はなく、別れ際、タイラーに「いくじなし」とこっそり罵られてしまった。
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「明日の朝、帰国しようと思って」
ジェイがそう話を切り出したのは、滞在してちょうど一週間目の朝だった。
「ど、どうして」
急なことで、つい言葉に詰まってしまったけれど、一週間ほどの休暇として来ていたならそろそろ帰国の算段をとるのも当然だろう。しかし、昨日はそんなそぶりをまったく見せなかったというのに。
「あの、思い返してみたら、僕はあなたにとても負担を掛けていたのではないかと思って……だって、あのジャック・コンラッドに子守なんかさせたりして……タイラーに言われるまで気づかなかったなんて、自分がひどく鈍感だったようで恥ずかしい。どうか、残りの休暇をゆっくり過ごして……」
ぴしゃんと落雷にあたったような心地であった。
いつぞや「僕の視線に敏感になってほしい」とは願ったが、そこで自分の鈍感さに気づいてしまうとは。まったくなんて噛み合わないのだろう。ジャックは、内心笑いだしてしまいそうだった。なんともはや、可愛らしい人ではないか。この、ずいぶん年若くして父親になった青年は、人一倍気遣いに翻弄される性格をしているらしい。
「まさか、僕が好きでしたことさ。君との休暇はとても楽しいし、時間が許すならずっと一緒に過ごしたいくらいだよ」
ジャックは、つとめて慈愛を込めた顔でジェイを引き留めようと言葉を紡いだ。長い俳優生活のおかげで、どんな表情が、台詞が、どう効果的なのか分かっていた。だが彼の方は、罪悪感はいくらか和らいだにせよ、日程的に明日の帰国は譲れないとのことだった。
これもまた、なんて歯車の噛み合わせが悪いことであろう。
その夜の食事は、はじめて会った夜と同じものを食べた。
長い滞在でも飽きないようメニューは豊富にあったが、初対面のときは緊張してスフォリアテッラの味が分からなかった、と彼が白状したからだ。貝殻に見立てた丸いパイ生地で包まれたリコッタチーズのクリームは、歯が痛くなるほど甘いが、ほんのりと切ないような酸味も舌に感じて、まるで最後の夜にお似合いじゃないか、とジャックは自嘲してしまう。
一家団らんといった食事の席は楽しく、ひとときはあっという間に過ぎていった。ジェイは頬を紅潮させて「こんなに楽しい夜は生まれてはじめて」だと喜んでいた。その嬉しそうな顔が、いつまでも脳裏に焼きついて離れない。
「明日の朝は早起きして見送りをするよ」と言って別れたが、ジャックは彼の笑顔を闇に溶かしたくなくて、とてもすぐには眠れなかった。
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──これから僕は不道徳な願いを口にするが、最後まで聞いてほしい。
まず、僕は離婚の手続きをすませるために帰国する。まっさきに弁護士を立てて、つつがなく事が終わるように手配する。そして次に、君にも奥さんと別れてほしい。いや、これは過ぎた願いだから、聞き流してくれ……。僕は、その、君にまいってしまったんだ。はじめて目を合わせたときから、その青さに舞い上がったり這いつくばったり、じりじりと心を持っていかれてしまった。君と過ごす日々は心穏やかで楽しくて、あの日、君の子が僕の部屋の戸を叩いてくれてほんとうによかったと思っている。帰国すれば愛する奥さんが待っているだろうから、いまのうちだけ、この気持ちを伝えることを許してほしい。
ジェイの泊まっている部屋の前、まだ朝も早く人通りのないタイミングで、ジャックは出迎えてくれた彼に思わず一息かと思うような立て続けのいきおいで思いの丈を口にした。口にしてしまった。紳士的に見送ろうと決めていたのに、ジェイの顔を見たらそんな決意は吹き飛んでしまったのだ。
「あの、」
彼の困惑した声色。
途切れた台詞の先を聞くのが怖い。先ほど自分が口にした不道徳な願いを思い出して青くなる。なんて自分勝手だったのだろう。これでは彼に一生の別れを告げられても──「ジェイ」 渦巻く思考がとめられた。
声のする方へ目線を下ろせば、タイラーが不機嫌を丸出しにした表情でジェイを睨んでいる。
「言わないのかよ」
「だ、だって……」
「ジェイはへんなとこでビビってるよな」
「うう、」
なんのことか分からないジャックをよそに、タイラーはジェイを彼なりの方法でけしかけているらしい。「あの、コンラッドさん……」ジェイが顔を上げて、ジャックの目にひた、と視線を合わせる。その瞳の青さは朝日の中でも光に透けず、濃い深海のように覚悟をたたえていた。
──あの、僕はまだ、独身なのです。
タイラーは、養子で……こんな未熟な僕にはもったいないくらいできた子で……。昨日、あなたと別れてからずっと、僕ったら切なさに未練がましく涙を堪えることもできない始末で、それをタイラーが寄り添って慰めてくれたのです。ほんとうに、いい子で。今朝、あなたの顔を拝んだら、きっと気持ちを伝えようと決意するのを手伝ってくれたのです。だから──。
「僕、あなたの離婚成立まで待ちます」
ジャックの腕をぎゅ、と掴んで、彼はうつむく。
まだ決定的な言葉をお互い聞いていなかったが、その先の予感だけでじゅうぶんだった。そっとジェイの後頭部に触れる。撫でることはしなかった。いまはまだ、よき友人の距離感で振る舞いたかった。「ありがとう」と、それだけ伝えた。
うなずく彼がまた涙を流してもその頬を濡らさないよう、ジャックは胸を貸す。心臓のあたりが、じんわりと熱くなった。彼の瞳の地中海がすべて枯れてしまわないうちに何か言葉を掛けたかったが、もうすこしだけ、この熱を胸に感じていたかった。