Falling Down

 カン、と音を立てて歩道に缶詰が落ちた。

 ロンドンの端っこ、古い建物が続く街並み、最悪の天気。降り出した小雨から逃れるように、小走りで自分の住むフラットに急いでいたダニーは、建物の角で誰かにぶつかった。お互い転びはしなかったが、ダニーは驚いた拍子に、抱えていた紙袋から中身をいくつか落としてしまった。石畳の歩道に散乱する食料品。「わりい!」と飛んできた訛りの強い声。ぶつかった相手は、レザーハットを被った男だった。

「雨え降られちまったんで急いでたんだあ、怪我ァねえか?」
「あ、ああ。大丈夫」

 一言会話を交わすと、彼は歩道に落ちた物を拾い始めた。あわててダニーもそれに続く。けれど、濡れて強度の落ちた紙袋が破けてしまい、結局ぜんぶ中身をぶち撒けてしまった。さいわい丸裸のパンなんかはなくて、缶詰とか瓶詰めとか酒とか、濡れても困らない代物だけだったが、ダニーはしゃがんだまま言葉を失ってしまった。すると、彼は足元の缶詰を手に取り、遠くを見るような眼差しをして「これとおんなじやつ、マーも食わせてくれたっけなあ」と呟くや否や、着ていたジャケットを脱いで、落ちたものをぽいぽいとまとめると「家え、近いか?」と聞いてきた。呆気にとられ、ダニーはつい「すぐそこ」と応えてしまい、見知らぬ男と帰路を急いだ。

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「助かった。ジャケット、ごめんな」
「かまァねえよ、どうせボロだ」

 合皮のジャケットについたシワを伸ばしながら礼を言うと、男は快活に笑った。身なりといい訛りといい、明らかにアイリッシュ・トラベラー、いわゆるパイキーの類だと分かったが、ダニーは抵抗なくフラットのなかに彼を入れた。アフリカで生まれ育ったし、傭兵だったこともあって、酷い身なりも訛りの強い英語も慣れっこだ。せっかく部屋に招いたことだし、どうせなら雨宿りでもして行くかと聞いたら、彼はちょっと身を引くと「おッいいのか?」とおどけて身体を揺らした。「ダニー・アーチャーだ。恩人の名前を教えてくれよ」と片手を出すと、彼はレザーハットを脱いで「ミッキー・オニール。ンじゃあ、お言葉にあまえっとすっかな」と握手をして、また快活に笑った。

 ミッキーは面白い男だった。
 ちいさなキッチンスペースでお湯を沸かしながら、ダニーはミッキーの放浪した土地の話を聞く。各地を点々としながら、合法非合法の仕事を請け負って暮らす日々は、なかなか刺激的な様子だった。取引のおまけに犬を一匹付けると話すので、何でかと聞いたら「そこいらでわらわら拾っちまうんだけっど、ぜんぶは飼えねえかんなあ」と、彼は困ったように眉を下げた。ワンルームのフラットは狭く、リビングなんてあってないようなものだし、座る場所は仕事用のデスクかセミダブルのベッドしかないので、二人はキッチンスペースに立ったまま、淹れたての紅茶を飲んだ。

「そうだ、シャツだけでも乾かしてくか? ちいさい洗濯機だけど、乾燥機能ついてるから。おれも着替えたいし」

 思い出したように提案する。暖かい季節とはいえ、小雨に振られた服にはしっとりと水の気配が染み込んでいたので、寒いだろうと思ったのだ。ミッキーは洗濯機に興味津々で、乾かすところを見たいと言うので、二人でバスルームに入った。躊躇いなくシャツを脱いだ彼の上半身はよく鍛えられていて逞しく、肌の至るところにタトゥーが入っている。両肩にお揃いの猫のようなキャラクターが彫られているのが可愛らしくて、ダニーは触ってもいいかと聞いてしまった。ミッキーは嫌がることもなく、ふざけて「サービスだかンなあ」と言いながら好きに触らせてくれた。

 寒いかと気遣ったのが馬鹿みたいに、彼の肌は指で辿ると熱かった。コミック調に描かれたキャラクターの輪郭をなぞってみると、とくにおうとつがあるわけでもなく、皮膚の表面は鞣した皮よりも滑らかだ。ミッキーがくるりと背を向けると、肩甲骨にも大きなタトゥーが入っていた。最後の晩餐らしき図柄。ダニーは絵画に詳しくなかったが、これが神聖で美しいものだということは分かった。彼が背負うのによく似合う。イエスに差す後光の線をそっと撫でると、ミッキーはくすぐったそうに肩を揺らした。

「満足したかあ?」
「ああ、ありがとう」

 肩越しに声を掛けられて、はっと指を離す。
 彼は振り返ると、ダニーが羽織っているシャツの裾を引っ張って「今度はあんたの肌ァ触らしてくれよ」と言ってにぱっと破顔した。それが、あんまりにもあけすけな誘いだったので、戸惑うのも変だなと思い、ダニーは迷わずシャツを床に落としてタンクトップも脱いだ。「ヒュウ!」大袈裟に口笛を吹いてにやつくミッキーの目の前で、さあどうぞと言わんばかりに両手を広げる。ちょっとしたふざけ合いの延長といった気分だった。けれど、まるではじめからそうなるのが決まっていたみたいに、ミッキーがダニーのおとがいに指を添えると、二人は自然に口づけを交わしていた。

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 唇を貪り合いながらもつれるように移動して、狭い通路の壁に背中をぶつけ、ベッドに倒れ込む。それなりにいいマットレスの物を買ったので、スプリングの軋む音はしなかったが、反発して身体が跳ねた拍子に互いの額をぶつけてしまい、鈍い音がした。それに二人して目を丸くして笑い合い、もう一度口づける。今度は深く、ねっとりと舌を絡ませて。ちゅくちゅくと派手な水音が部屋に響くほどたっぷりと唾液を交換し、口の端から溢れたものを舐め取って、ダニーはミッキーの厚い下唇を甘く噛んだ。

「慣れてんなあ、あんた」
「は、処女じゃなくて悪かったな」

 ミッキーの左胸を占める聖母マリアを差して言い返すと、彼は「こんなァただの飾りさあ。それに、おれとすんのはァはじめてだろ」とダニーの目を覗き込んだ。ちょっと緑がかった碧眼は、ブルーダイヤモンドみたいにきらめいている。ほんのちょっとの不純物が混じったせいで希少価値のある石となったそのダイヤは、神さまの気まぐれなんて呼ばれている。ほんとうに神がいるとしたら、ずいぶんとこの男には贔屓をしたものだ。顔も身体も一級品。おまけに、あっちもいいものを持っている。既に兆した股ぐらのものを膝で撫でると、ミッキーはジーンズのジッパーを下げた。

 慣れている、というのは事実だ。
 十九で軍人に拾われたダニーは、美しい容姿のせいで慰み者にされた。男所帯で少女のような顔立ちをした者がどうなるかなんて、火を見るより明らかだ。それでも、そこを出ていかなかったのは、ほかに行くあてがなかったから。両親を失い、家を失い、何処にも属することなく、ずっとひとりで生きるのに疲れたのかもしれない。女の代用品にされても、肌を合わせて体温を感じると、ときどき泣きたくなるほど気持ちが安らいだ。必要とされることが嬉しかった。けれど、次第に醒めていった。軍人の手を離れ、ほかの居場所へ逃げるために金が必要だった。武器やダイヤを密輸するようになった。それで、身を滅ぼしかけたが、いまは何とかロンドンに居場所を見つけて細々と暮らしている。

「これァ、派手な傷跡だなあ」

 ミッキーが愛撫の手を止めて、ダニーの左脇に付いた銃創を眺めていた。アフリカを脱出するときに撃たれた跡。出血が酷くて死ぬかと思ったけれど、何の御加護か生き延びてしまった。おれは、赦されたのだろうか。自分の行いで流した血のことを思うと、ダニーは助かったことが間違いのようで苦しかった。マディーの紹介で紛争ダイヤをなくすための仕事を始めたときも、いままで見なかったことにしてきた真実が覆い被さってきて、眠れない夜を過ごした。たぶん、おれは贖罪のために生かされたのだ。そう思わないと、罪の意識に溺れて窒息しそうだった。

 ふと、ミッキーの親指に頬を撫でられる。
 歩道で拾った缶詰を見つめていたときと同じ、何処か遠くを見るような眼差しで「あんたァ、宝石みてえな目ン玉してンなあ」と彼が呟いた。「おれのマーも、綺麗ェな目えしてたんだけっど、みいんな燃えちまった。骨しか残ンなかったし、写真も一枚しかねくって、ふとすっと忘れっちまいそうで怖えんだ」あ、泣きそうな顔だ、と思った。ミッキーが見せたこころの弱みをいたわるように、ダニーは彼の頬を撫で返した。「おれの親も、燃えて消えちまった。何にも残らなかったし、写真もなくて。でも、父さんがおれの瞳は母さんにそっくりだって言ってたから、ときどき鏡を見て二人の存在を感じてる。あんたの目も綺麗だから、きっとマーと似てるんだと思う。大丈夫、忘れやしないさ」親を失った子どもが二人。もしかしたら、出会ったのは偶然じゃないのかもしれない。互いのこころを慰め合うように、温かな肌を擦り合わせた。

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「あッ、はあ、待って……」
「は、待てねえよ」

 余裕を失った、息の荒い口調。「あんたァ、何処もかしこもやらけえなあ」と両脚を大きく開かれ、後孔に性器をあてがわれる。行為に慣れたそこは、とろとろに解けて口を開け、男のものを待っていた。ミッキーの指にまとわりつく、体温で溶けたワセリンがテラテラと光っている。ぐっと先端を押し込まれると、ダニーの後ろは食いつくようにミッキーのものを受け入れた。硬くて熱くて、苦しいほど大きなそれが、腸壁を辿って進んでいく。慣れた感覚のはずなのに、ダニーは背をぞくぞくと震わせて快感に耐えた。まだ挿れられただけなのに、泣きたくなるほど気持ちいい。思わずミッキーを制止しようとするも、彼は動きをやめなかった。

「だめ、何か、あ、おかしいから……んッ」

 逞しい腕に手を掛けても、ただしがみつくような格好になるだけだった。ミッキーがダニーのなかに性器をあらかた収めて、やっと一息吐く。「動いたら出ッちまいそうだ」腹筋をひくりと震わせて表情を緩めた顔は、弱みを晒すような無防備さがあるのに、何処か雄々しい獣の気配がする。身体のなかで脈打つものが、はやく暴れたいとさざめいた。下腹の奥がきゅうと切なくなって、いままで誰にも許さなかった最奥まで犯されたいと願ってしまった。だから、ダニーはミッキーの後頭部に腕を回して顔を寄せ「動いて、出して、いっぱいにして」と囁いた。それからは、もう嵐のようだった。

「はあッ、ンン、いやあ、もっと奥ぅ……もっと、おねがい……!」
「おッ、ああ、は、あんたァ、すっげえいい……綺麗ェだなあ、」

 激しい突き上げにガクガクと揺さぶられながら、ダニーは悦びに涙を流した。こめかみに伝っていくのをミッキーが犬みたいにべろりと舐めて「しょっぺえ」と笑う。こいつ、可愛いな、と思って口づけをねだったら、唇ごと食べられてしまった。長い舌が口のなかを這い回って上顎をくすぐり、ぞろりと舌同士を擦り合わせる。しびび、と尾骶骨から甘い痺れが上り詰め、脊髄から脳まで快感の信号が走り抜けた。その瞬間、爪先をぴんと伸ばしきって絶頂に達する。「うッ」とミッキーが呻き声を上げ、一瞬動きを止めるも射精には至らず、びくびくと痙攣するダニーの脇腹を掴んで動きを再開した。

「んッ、やめ、イッた! イッたからあ!」
「悪ィ、もうちょい付き合ってくれったら、は、天国見してやっから」

 余裕のない呼気が、目尻を下げた表情が、どれも愛おしくて。幼い頃に抱かれた母親の温かな腕を思い出し、慈愛の気持ちが湧き上がってしまった。下腹の最奥、あるはずのない器官が疼くような感覚に陥って、熱い吐息を零す。ミッキーの性器がさらに奥へと進み、ぐぽっと鈍い音を立てて先端が結腸の口をこじ開けた。「ひッ」ダニーは息を詰める。呼吸が出来ない、苦しい。頭が真っ白になって、温かいものに浸かったような、じわじわと広がる法悦に身をゆだねる。いつの間にか、ダニーはとろとろと精液を垂らしていた。反射的にきゅうきゅうと締まる媚肉に耐えきれず、ミッキーも射精する。ほとばしる体液が、どくどくと奥のおくまで注がれて、孕んでしまいそうだと思った。

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 事後の気怠い身体を無理やり起こして、ダニーはベッドを出ようとした。  その腕を骨ばった大きな手が掴み、行くなと引き止める。振り返ると、ミッキーが寂しそうに「くん」と鼻を鳴らした。「すぐ戻る。腹ンなかのもん掻き出してくるから」微笑んで、ぼさぼさに傷んだ髪を梳くように撫でると、意外と柔らかな髪質のダークブロンドが指に心地いい。そうしたら、何だか離れがたくなってしまって。追い打ちを掛けるように「おれンこと置いてっちまうのか?」と目で訴えられたら、降参するしかない。ダニーは諦めてシーツのなかに潜り込み直した。

「いいンか?」
「ん、いいや。後で一緒にシャワー浴びような。狭いけど」

 鍛えられた腕をくぐってミッキーの胸に収まると、熱のこもった素肌から汗の匂いがした。「風呂でもう一発やりてえなあ」と額に口づける彼の顎に手を添えて、顔を上げる。「おれもまだ足りねえよ」にやりと目を細めて応えると、ミッキーは首筋に鼻を擦り付けて「あんたァ、すげえ気に入った」と言うと、けらけら笑い出した。掛かる息がくすぐったくて、ダニーもくすくすと笑った。小雨はとっくに止んでいたけれど、抱き合って体温を分けていたら、離れるのが惜しくて。二人とも、子どもみたいにはしゃいだ気分で、唇をくっつけるだけの口づけを何度も交わした。