ジムからはときどき、煙草の匂いがする。
こうやって、本を読む彼を後ろから抱きしめて襟足に鼻を突っ込んでみると、かすかに甘いような苦い残り香を感じる。不良少年め、と思うけれど、おれだってビール飲んで運転するし、おあいこかもしれない。と、ドワイトは考えていた。
読書に集中するジムの相手は暇だ。たまに、恋人を本に盗られたような気さえする。けれど、これを読みたくて発売日をいまかいまかと待ち構えていたジムの気持ちは大事にしたいし、邪魔をして険悪な雰囲気になるのは避けたい。なにせ、ふたりはまだ付き合ってひと月も経たないのだから。
ジムとの出会いはひどかった。
バスケットボールの他校交流試合で来た彼らと一戦交えている間に、ジムの悪友がロッカーにしまっておいたドワイトの指輪を盗んだのだ。すぐに気づいて一触即発の事態になったとき、盗んだ奴の頭をひっぱたいて指輪を返させたのがジム。「もうやらないって言っただろ」とかなんとか口にしていたから、常習犯だったんだろうと伺えた。
「悪いな」
と、一言だけ謝って帰ろうとしたのを引き止めたのはドワイト。その態度が気に入らなかったのと、悪びれない顔が綺麗で気になったのと、ないまぜの感情のままジムの腕を掴んでいた。「なに」と不機嫌そうな表情は、最悪な態度なのに天使みたいに美しくて、そういえば彼の学校はミッション系のスクールだったな。だったら、ジムは神さまの使わしたなにかなんじゃないか。とか思っていた。でも、ドワイトが口に出せたのは俗っぽいナンパの常套句で。
「とりあえず、電話番号聞いていい?」
ジムの不機嫌そうな表情は、「こいつなに言ってんの」というさらに最悪なものになったけれど、制服のポケットから出したノートの切れ端に、サラサラとペンで番号を書いて渡してくれた。これが、いちばん最初の思い出。
その夜、自宅で家族の誰も電話する様子がないのを確かめたドワイトは、自室の子機でさっそくジムに電話を掛けた。もしかしたら、でたらめの番号だったかもしれないのに、どきどきしてしょうがなかった。
けれど、最悪の展開は訪れず、電話は無事にジム本人に繋がった。けっこう真面目なんだなと印象がくるくる変わる。ジムは面倒くさそうに、でもふつうの友だちみたいになんでもよく喋った。学校のこと、隣の家の変なばあさんのこと、バスケットの試合のこと。
「お前、もっと練習したらいいプレイヤーになるよ」
なんて、最後には励ましの言葉までくれた。
残念ながら、長電話がバレてジムは母親に切るよう言われてしまったので、ふたりは名残惜しい気持ちで受話器を握りしめた。そう、このとき、ドワイトとジムは同じ気持ちだった。もっと話したい。もっと声を聞いていたい。そして、できれば隣りに座って顔を合わせたい。受話器を置いて三十秒後には会いたい気持ちでいっぱいだった。これが、にばんめの思い出。
翌日、ドワイトは授業をサボって車でジムの学校まで行った。地元の田舎町と違って、広大な都会の住所はわかりづらくて迷ってしまい、着いたのは放課後だった。帰宅する生徒のなかにジムを見つけて、思わず盛大にクラクションを鳴らした。彼はすごく焦って駆け寄ってきたけれど怒っていなくて、逆に「なんでいるんだよ!」と嬉しさを隠せない様子だったから、ドワイトも嬉しくなってしまい、騒ぎに駆けつけた教師に捕まる前に、急いでドライブに繰り出した。
映画館、レコードショップ、なんでもあったけれど、夜になってジムが案内してくれたストリップクラブはやばかったな、とドワイトは回想する。対面でガラス越しに女の人がストリップする様子を眺める仕組みの部屋。興奮しすぎて鼻血が出てしまったドワイトをからかうジムは、なんの気まぐれかぺろりと流れる血を舐めたのだ。はっと気づいたら、彼は挑戦的な眼差しでこちらを見ていた。だから、ドワイトは受けて立つようにジムとキスをしたのだ。
鼻血味のキス。
ロマンチックの欠片もない場所で、ロマンチックの欠片もない味のキスだったのに、ふわふわ足元が浮ついた。唇を離したとき、いまさらストリッパーの存在を思い出して慌てるドワイトに「マジックミラーだから」とからから笑ったジムの唇は、血の色だけでなく赤かったような気がする。これが、さんばんめの思い出。
「鼻息、くすぐったいから」
本を読んでいたジムが、振り向いて怪訝な顔をしている。ドワイトは気づかないうちにひとり思い出し笑いをしていたようで、首筋にあたる息が気持ち悪い、と言われてしまった。ちょっとひどい言い草だ。「はじめてキスした夜を思い出してた」と、正直に話せば、ふうんと気のない返事が戻ってくる。
あのあと、帰宅して両親に叱られたことも、翌朝登校して教師に叱られたことも気にならないほど、ドワイトは浮かれていた。その日のうちにジムへ「好きだ」と電話するほど。いま恋人だと思って彼を抱きしめてはいるけれど、もしかしたらひとりで舞い上がってるだけなのかもしれない。
ドワイトがしょぼくれた犬のようにしおれていると、ジムはこらえていた笑いを吹き出した。
「お前ってほんと、かわいいやつ」
本読んでるより、お前の顔見てたほうが飽きないな。なんて言われるものだから、やっと本から恋人を奪い返せたドワイトは、やっぱり舞い上がってジムのつむじにキスを落とした。ほんのり煙草味のキス。次はビールでも飲んでるときにしようかな、と思いながら、ドワイトはまたひとつジムのあたまに口づけを落とす。
まだひと月しか経ってない。もうひと月も経ってしまった。どっちだろう。キスより先も彼と一緒にしたいな。思い出をいくつも重ねながら。と、ドワイトが愛しさを込めてジムの顎をさすったら、彼はくるりと顔を上げたので、はじめて逆さのキスをしたのだった。
そうして、これがなんばんめの思い出かは、ふたりだけが知っている。