「僕をひとりにしないで」
撮影所に掛かってきた電話は、ジェイからのものだった。
ジャックは喧騒の背景に負けそうなくらいちいさな声を聞き漏らさないよう、電話口とは逆の耳を塞ぐ。午後の撮影は押しに押していて、約束していた食事に行けないと先ほど連絡したばかりだった。
「ジャック、あなたが忙しいことは分かってる。こんな電話を掛けて迷惑なのも。あなたがあれだけ面倒に思っていた妻たちのように纏わりつくのもうっとおしいと思う。けれど、もうこれ以上会えないのはとても……とても耐えられないんだ」
泣くのを堪えているようなわずかに震えた声。連絡したときには聞き分けよく「大丈夫、また次の機会があるから」と答えていたのに。短時間のうちに彼の中で何が起こったのだろうか。
「ジャック!」
すぐ横から大声で名前を呼ばれ、撮影の出番が来たのだと知らされる。
ジェイは無言でジャックからの返答を待っていたが、期待に応えることはできなかった。何も言わずに切るのは悪いと思い、「すまない」とだけ返してすぐに受話器を置く。謝罪に対する彼の返事はとても聞けなかった。
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電話口から何も聞こえなくなっても、ジェイはしばらく受話器を握りしめていた。ジャックの──銀幕の大スターの恋人になるというのはこういうことだと分かっていたのに。
受話器を置くと、同じ机に置かれた開きっぱなしの雑誌が目に入る。
──ジャック・コンラッド、新しい恋人はロマンス映画の共演者!
センセーショナルな見出しに、美しい女性の腰を抱いて歩くジャックの写真。彼はこちらへ向かってにこやかな笑顔まで振りまいている。
一時間前、ジャックから「約束していた食事に行けなくなった」と連絡があった。撮影が押しているから、申し訳ない、埋め合わせはする、愛している、とも。最初は、仕事だから仕方がない、彼の情熱に水を差してはいけない、と自分を納得させて、聞き分けのいい恋人みたいに「大丈夫」と返したけれど。
そのあと見た雑誌のせいだ。ゴシップを書き立てたくだらない紙の束のせい。彼がいま女性と付き合っているなんて嘘だと分かっているのに、受話器を置いた瞬間からじわじわと不安がつのってきて、つい電話を掛け直してしまった。こんなの、彼に迷惑を掛けるだけだというのに。
気分がひどく落ち込んで、かと思えばカッといきおいあまって後先考えずに行動してしまう。ジェイは自分がたいへん乱高下の激しい気性の持ち主であることを自覚していたので、今日はもう寝室に下がろう、眠ってしまえば何も考えなくてすむ、と考え、身支度を解くことにした。ついでに冷たいシャワーを浴びて熱くなった目頭を冷やせば、すこしだけ気持ちが落ち着いてきた。
ソープで頭から爪先まで洗った泡を流しながら、ふと、もし彼と食事をするなら今夜のことを考えてきっと……。
──ジェイ。
耳元でジャックの声。
後ろから覆いかぶさるように彼の声がしたような気がした。
ふつ、と下腹の奥に熱がともる。
──今夜、何を期待していた?
──あなたと一夜を過ごすことを。
──一夜だけ? 君となら千の夜をともにしても足りないくらいだ。
──嘘つき。ひどい人。いまここに居ないくせに。
以前鑑賞した彼のラブロマンス映画の台詞だった。もっと甘ったるくて耳ざわりのいい言葉だって、彼の口から紡がれるとまるで自分ひとりだけに向けられた特別なもののように錯覚してしまう。冷たいシャワーを浴びていてよかった。でなければ、全身が火照って目もあてられない浮かれた勘違いをしてしまいそうだった。けれど、下腹にともった熱は浮かれた勘違いよりもやっかいなことに、じわじわとジェイの肉体を支配していく。
きゅ、とカランを締めて水を止めた。
タオルを使うのもそこそこに、濃紺のバスローブを引っ掴んで寝室へ飛び込む。濡れた髪で枕が染みるのも構わず、羽織ったバスローブごと肩を抱いて横たわった。胎児のように身体を丸めて両腿に挟んだ右手をそっと尻のあわいに差し込めば、期待にうずいていたそこはつきんと痛むように指を飲み込む。
「あ、」
滑りの足りないままでは浅いところでとまってしまう。
ドレッサーまでローションを取りに行くのは待てなくて、仕方なく前を触って先走りですこしずつ濡らしていく。ぬる、と中指がいいところまで届いた。
「くう、んん、」
くりくりと指先で探るようにそこをくすぐれば、背筋をぞわぞわと登るような快感が走る。もっとほしい、ほしいのに……。
しゅる、とシルクのローブが肌に擦れてもどかしい。彼の大きな手のひらでするりと撫であげてほしいのに。男性的な、あのすこし骨ばった指を入れてほしいのに。中指、薬指と順番に、人差し指はいたずらをするような手管で入り口を引っ掻いて、そして、ちゃんとあなたのものを飲み込めるよう、どうか僕の身体を教育してほしいのに──。
ここに彼が居ないことがこんなに切ないなんて。
ジェイはすがるようにベッドサイドの写真立てに目を向けた。ジャック・コンラッドのブロマイドがそこに飾ってあるのだ。甘い眼差しを振りまく彼の表情は、恋人に愛を注いでいるかのように見える。
──ああ、そこに居たの。
──ずっと見ていたよ。可哀想に、つらいだろう。
枕元に写真立てを引き込み、ジェイは空想のひとり遊びを続けた。
──見て、もう指が三本入るの、あなたに抱かれる準備はできているよ。
いやらしく、けれど密やかに脚を開き秘部を見せつける。ジャックの手がジェイの膝頭に触れ、「なんて健気なのだろう」と股ぐらの雫を指にとって舐めた。それを想像するだけで、びくんと脚がふるえ、ジェイは自分が後ろで軽く達したことを感じる。
──いやだ、まだ足りないの、あなたがほしい。ちょうだい。
はしたないと分かっていても、秘部に突き立てた指を激しく動かす衝動にあらがえない。ぐちゅぐちゅと水音を立ててうごめく胎内は、擬似的な男性器でもおかまいなしに食い締める。
──ジャック、お願い。お願い、僕を焦らさないで。僕を、ひとりにしないで。
びくん、びくんと大きな絶頂に達しても、秘部から引き抜いた自分の指が冷えていくの感じてしまうと心もだんだん侘びしくなっていく。ジェイはひどく疲れた面持ちで、濡れた指をローブの端で拭うと、写真立てに飾られた大衆向けの恋人をそっと胸に抱いて眠ってしまった。
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なんとか日付が変わる前に愛する人の邸宅へ駆け込んだジャックは、寝室でひとり、ブランケットも掛けずに丸まって眠るジェイを見つけてしまい、たいへん心が痛んだ。リビングの電話機の横にゴシップ誌が広げられているのを見て、彼が不安に思っていた正体を知ったばかりだった。
「僕には君だけだというのに」
濡れたままの髪、爪先まで冷え切った身体。なにより、ジャックの写真を抱いて眠る彼の心がいちばん凍えているだろう。おそらく自分で自分を慰めたであろう痕跡が、なによりの証拠だ。
足元に避けられたブランケットをとり、ジェイの身体にかけてやる。ふと、悲しむように眉を寄せた顔がきらりと光った。ひとすじの涙の跡。夢の中でも孤独に苛まれているのだろうか。
「君をひとりになんてさせない」
ジャックは、ブランケットごとジェイの肩を抱きしめ、耳元でとびきり熱い愛の言葉を囁いた。火傷するほど熱ければいい、彼の心に一生消えない愛の証をともしたい、と願いながら口づけを落とす。
目を覚ましたジェイは頬を火照らせてその唇を受け入れたけれど、ジャックがなんと言って彼を起こしたかは、どこのゴシップ誌にも載らないふたりだけの秘密であった。