A Little Piece Of Heaven(思想編)

僕は無力だった。
レオがここを去った日、朝から胸騒ぎを覚えていたのに、電話の一本も掛けなかった。もし掛けていたら、運命は変わっただろうか。お互い遠く離れた場所にいて、仕事も忙しくて。言い訳をあげたら切りがない。とにかく、僕は彼の発した遭難信号を受け取っていたのに、救助に向かわなかった。いまさら後悔しても遅い。まるでタイタニックのジャックのように、レオは深い海の底に攫われてしまったのだから。

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何も手につかない日々が過ぎていく。
晴れた空はレオの瞳を思い出すから、曇天か雨の日くらいしか外に出られなかった。普段は遮光カーテンを締め切った部屋で、主人を待つ犬のように暮らしている。さいわい、僕には金と時間があった。あと、わがままを聞いてくれる友人たち。みんなやさしくて、「あなたの気持ちは分かる」とか「いつか立ち直れる日が来る」とか「時間が癒やしてくれる」と言って励ましてくれた。最初のうちは、それらの台詞を思い出してみた。でも「僕は自分の気持ちが分からない」し、「今日も立ち直れなかった」し、「時間はずっと止まったまま」だった。僕は台詞をちぎり捨てた。

スマートフォンもタブレットもラップトップも使っていない。
あの日、レオからの信号に応答しなかった機械なんて役立たずだ。通知音がうるさいだけのスマートフォンは壁に叩きつけて音を止めた。タブレットは窓から投げた。仕事の予定をチェックする気になるかもしれないから、ラップトップだけは充電を続けていたけれど、スケジュールアプリがレオの誕生日をポップアップした瞬間にへし折った。レオがいないのに、どうして誕生日なんか来るんだ。僕は長い時間を掛けて声を枯らし、ひたすら泣いた。

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ずっと映画を見て過ごしている。
レオの出演している作品を片っ端からリピート再生していた。出会う前から持っていたものもあるし、出会ってから揃えたものもある。同じタイトルでも、内容に違いがあれば何バージョンとかき集めた。VHSもDVDもブルーレイも何でもある。むかしの映像はいまと比べたら粗いけれど、レオの肌は滑らかだった。あの頬を何度撫でたことか。最新の映像技術で鮮明に大写しにされた彼は、それがたとえ4Kの高解像度だったとしても、記憶のなかのレオよりだいぶ劣っていた。触れられない距離が、こんなにも遠く感じる。そっと目を閉じた。

脳内で再生されたレオは、どれも色濃くきらめいている。いつか、これも擦り切れてしまうのだろうか。人間の五感が失われる順番について、すこしだけ頭を巡らせてみる。目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、においが分からなくなっても、レオがいないから関係なかった。触覚はいつまで記憶に留めて置けるのだろう。記憶容量を圧迫する新しい刺激。自分が床につけた足の裏の感覚なんて、過るだけでも許せない。レオの記憶が押しやられてしまう。あのきれいな脚線美、意外と細い足首、柔らかな足の裏。ぜんぶ忘れたくない。宙に浮いて、なるべく触覚を刺激しない生活をしたかった。

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今朝、鏡を見たら知らない男がいた。
髪も髭も伸び放題の、熊より毛むくじゃらな醜い生き物。もう何年も巣のなかで冬眠しっぱなしという感じ。散髪どころか最後にシャワーを浴びた日すら思い出せなかったので、臭いも酷かった。ふと、レオに怒られると思った。彼は自然が好きなくせにちょっと潔癖なところがあって、セックスの前は必ずシャワーを浴びたがる。僕はそういうのを気にしないたちなので「ベッドで待ってる」と言ったのに、腕を引っ張られて結局、ふたりで熱い湯を浴びる羽目になった。そうだ、レオに怒られる前に、綺麗にしなくては。

念入りに身体を洗って、髭を剃り、髪を梳かした。ほんとうはヘアサロンにでも行って何とかしてもらった方がいいのかもしれない。まるで、ルイのように長く伸びた髪。かなり日光から隠れて過ごしていたので、顔も青白かった。僕はヴァンパイアだった。いまなら千年の孤独も自分のことのように思える。どうして彼を噛まなかったのだろう。夜を歩くことしか出来ない怪物になっても、レオとふたりならきっと楽しい。

止まっていた時計が動き出した。午前六時。この鏡の前はちょうど、レオとシャワーを浴びたときに手をついた場所だった。後ろから抱きすくめると、彼は猫のように背を反らして、すがるように鏡面を引っ掻いた。滑る指を捕まえて絡め取る。久しぶりにレオと手をつないだ。ほんとうに、久しぶりの再会だった。レオ、何処に行っていたの。僕は君にずっとずっと会いたかった。もうぜったいに離さない。たとえ、どんなことがあっても──。

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そうして、ここがはじまりの場所になった。

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僕は夜光虫のように物語のなかを彷徨った。
レオがいざなうフィルムの世界に身を任せ、一九九七年のスクリーンに飛び込む。そこには、もう何百回と見た光景が広がっていた。英国客船、タイタニック号。ボイラー室の蒸気をかき分けてレオが走っていくのを、笑いながら追いかける。陽の光が差さなくても、きらきらしい若さを振りまく彼はとても眩しかった。つい、手を掴んで止める。じっと合わさる視線。ためらいがちに重ねた唇は熱かった。何度もついばみ、首筋に手を掛ける。暗転。

突然、痛みが全身を貫いた。
いっぺんに何千本ものナイフで身を切られるような感覚。あまりの痛さに悲鳴を上げようとしたが、僕はいつの間にか海中にいて、呼吸もままならない。夜の海は、まるで天と地が逆さまになったようで、海面がどっちにあるのか分からない。必死にレオを探した。嫌だ、また離れるのは嫌だ! 肺に海水が入り込んでも構わなかった。僕はレオの名前を叫んだ。暗転。

僕はゆらゆらと波に揺られながらドアの切れ端に掴まっていた。
大破した豪華客船の残骸が、海面を埋め尽くすように漂っている。どうやってここまで泳いできたのか思い出せないが、何とか命は取りとめたらしい。と、体の冷えとは別の寒気が走った。そうだ、幾度だって見てきたじゃないか。ここはタイタニック。レオの最期を描くシーン。ばっと辺りを見渡して、あのきらきらしい光を探す。何処までも広がる海は、その身にレオの姿を隠して離さないかのように冷たく冴えていた。レオを放してくれ! 誰に向かって言っているのかも分からないまま、暗闇に懇願していた。暗転、そして。

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「筏を分け合うって言ってたのに」

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悪夢から飛び起きた。
心臓が早鐘を打って呼吸が上手く出来ない。

「レオ、嘘だ、ごめん、レオ、ゆるして」

うわ言のように謝罪の言葉を口にしていた。
息もままならず、もつれる舌が引きつっても、繰り返し繰り返し声に出し続けた。ごめん、レオ、ごめんなさい。どんなに謝っても許してもらえないかもしれない。でも、止められない。僕はまた君を救えなかった。どんなことがあってもぜったいに離さないと誓ったのに、たった二十三年の距離で君の手を見失ってしまった。僕は無力だ。ごめんなさい、レオ、ゆるして。いや、ゆるさないで。僕をまた連れて行って。今度は失敗しない。必ず君の手を掴んで取り戻す。だから、どうか、お願い。かみさま──。

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気がついたら、目の前でカメラが回っていた。
ここはたしか、メキシカンレストランのカサ・ベガ。ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの現場だ。もうとっくに撮影も公開もすんで、この前アカデミー賞で助演男優賞を取ったはずなのに。どうしてまだカメラが回っているのだろう。動揺する僕の思考を、唐突にリックの台詞が遮った。雇用関係の終わりを告げる言葉だった。ついで、クリフが台詞を口にする。「いい考えだ」サングリアの氷がからんと音を立てて崩れた。それは氷山だった。それが、引き金だった。

「だめだ! そんなこと許さない! 僕とレオの間を引き裂くものはぜんぶ、たとえ自分であっても、ぜったいに許さない! いますぐ台詞を撤回しろ! クリフ! やめてくれ、どうして、お前はリックが大切なんじゃないのか!? 僕がレオを思うように、お前もリックを思っているはずだろう!? そんな存在を何故、どうして、そうやって、やすやすと手放してしまうんだ……」

僕の意識はクリフと剥離していて、叫んだ言葉は空を切るだけだった。
どんなに喚いても、誰にも聞こえない。シーンの撮影が終わり、カットの声が掛かる。息を詰めていた芝居の空気が緩み、ざわざわと人々が何かを喋りだす。そのとき、僕のもとに天啓が舞い降りた。「リテイクしよう」あれが監督の言葉だったのか、役者の言葉だったのか、いまではもう思い出せない。けれど、それは救いの言葉だった。

そうだ、撮り直せばいいんだ。リテイク。
映画はレオの人生そのもの。僕はいつだってそれを見てきたのに、どうして気づかなかったんだろう。リテイク。レオの人生を撮り直そう。リテイク。脚本も監督も僕がやる。いままでの僕らが出会わなかった作品を、ぜんぶ集めてひっくり返そう。君が存在して、僕も存在するのなら、きっと僕たち何処かで出会うはず。西部劇のセット裏、金融街の交流会、スポーツジムのロッカールーム。何処もかしこも物語で繋がっていた──。

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──また君と会える。
──今度こそ筏をともにしよう。
──僕ら永遠に恋に落ち続けるんだ。

大きく安堵のため息を吐いた。
ここ最近でいちばんいい眠りに就くことが出来そうだった。