──また、居る。
コブがキッチンでコーヒーを淹れている間に、冷凍庫の中を物色する人物。年下の成人男性、つんつんした短い髪の毛、かなり見目はいいのに痣が耐えない顔。知り合いでもなんでもないその男は、いつの日からかコブの生活にするりと入り込んでくるようになった。
「なあ、冷やすモンねえの」
「製氷機にない?」
「ない。つーか、氷すらないってどんな食生活よ」
自分の不摂生を見抜かれて居心地が悪くなったコブは、適当なキッチンタオルを濡らして男に投げ渡した。氷がなくても、すこしはマシになるかと思ったのだ。彼は見事にタオルをキャッチしたものの、顔にあてることはせず「やってくれよ」などとのたまう。いつもそうだった。酷い傷や鼻血を心配すれば、「手当してくれよ」。やっと消えかけた痣の上にまた黒っぽい跡を残してきた夜は、「触ってみるか? すげえ痛えの」と嬉しそうにコブの手を取った。その、「やってくれよ」というのが合図だったみたいに、定位置のソファへ向かってしまう。深く腰掛けたコブの膝に、あたりまえだと言わんばかりに頭を乗せて、青に変色し始めた痣を見せてくる。
──慣れきった動物みたいだ。いや、慣れきったのは俺の方か。
はじめは不審者と思って。つぎは夢を疑って。
警察を呼ぼうとしたら、ちょうどやってきたアーサーには見えていない様子で。ならば夢かとトーテムを使っても、ここは現実で。背筋につめたい汗が流れた。とうとう狂ってしまったのかと。
「なに、そういうんじゃねえから安心しな」
まるで心を読んでいるかのように、男はコブの顔を下から覗き込んで、ほんとうに安心してほしいかのようにやさしく頬をさすった。すこしざらついた指の腹は、本物の人肌で。害がないなら放っておこうと判断したのが、いまの状況をつくっている。
「眠いのか?」
目元にあてていたタオルは、すっかり温くなっていた。
男が手を伸ばして、コブの耳の後ろを軽く掻いてきた。くすぐったくて、でもそれに反応するのもおっくうなほど身体は倦怠感に包まれていて。そもそも、眠りたくないからコーヒーを飲もうとしたのに、キッチンに置いたままだから、きっと冷めてしまっている。
「向こうで会おう」
すり、と首筋を撫でられ、そわそわとした心地とともにコブはソファの背もたれに頭をあずけた。「向こうで会おう」だなんて。どうしてか、男は現実と地続きに夢の中にまで現れる。また今夜も一晩中、俺について回って離さないんだろうな。そこまで執着するほど、自分が大層な人間だとは思えないのだが、彼はコブと違って疲弊することも飽くこともなく、何が目的か分からない接触を続けている。
「どうしたら……」
「ン?」
「どうしたら……君は、消えるんだ……」
寝不足と疲れが溜まっていたせいだ。まるで彼の死を願うみたいな物言いになってしまったのは。けれど、男は気を悪くするどころか待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせて言った。「俺の名前をあてられたら」、と。
「謎掛けさ。おとぎ話だか歌にもあるだろ、王子の名をあてるまで国民は誰も寝てはならぬ、みたいな」
「じゃあ……君の名前は、愛だろう……」
「違う。歌のネタバレじゃ解けねえんだな、これが」
どうすればいいのか分からなかった。
ただ、眠気と彼の手がコブの意識をさらっていく。
夢と現のはざまで、波打ち際のリズム正しい音が聞こえてくる。一気に虚無まで落ちてしまいそうなほど落下する意識。彼の目的も意味も分からないままでいいのかもしれない。いつの間にか身体を起こしていた男は、コブのおとがいを両手でそっと、しかし、もう二度と離さないという気配をもってすくい上げた。キスでもされるのかと思って目を閉じた瞬間、コブは眠りに落ちてしまったので、男が吐いた「キスで起こしてたまるかよ」という台詞は、夢の中でさえ聞こえなかった。