透明な錨

「君は綺麗になったね」

 とソロがいうので、何のことかと眉をひそめてしまった。
 続けて「若い子に抱かれているね」なんてことまでいうものだから、とうとうトニーは赤面して「黙ってください」とだけ返した。

「いいことだよ。君のうつくしさは磨かれるべきだ」

 ソロは、たまにトニーにはよく分からないことをいう。君は綺麗、だとか、うつくしい、だとか。
 どれも自分にはあてはまらないということはよくよく承知していた。無精髭とぼさぼさで白髪交じりの髪。鳶色の瞳は、いつも疲れでくたびれている。仕事にかまけてすっかり身なりはずたぼろだった。それなのに、よくソロはトニーのことをうつくしいという。

 しかし、「美術品にうるさい俺がいうんだから、間違いない。君はうつくしいよ」と、自信たっぷりにいわれると、つい「そういうものか」と思わされてしまう。物好きもいるものだと。
 だからだ。
 年甲斐もなく、後輩に「先輩、あなたを愛しているんです」と告白されて、抱かれてしまったのは。

「僕がうつくしいというならば、あなたはもっと綺麗になりましたね」

 ナポレオン・ソロ。十も年上とは思えない、艶々とした黒髪に、泳げそうなほど青い瞳。生きたギリシャ彫刻のように整った顔立ちと、いつもどこか飄々とした態度。
 暗に、自分と居ない間に抱いた女性の数を責めてみたのだが、彼はことさら嬉しそうに「アイ・ノウ」と答えた。まるで、褒められたみたいに。
 さすが、生粋のウーマナイザーは違う。自分だったら気まずくなって照れてしまう。

「その子、大事にしなさい」

 ソロにいわれると、それが倫理に反していることだとわかっていても頷いてしまう。その子、と呼ばれたのが、世間では間男に属するたぐいの立ち位置でも、トニーとソロにとっては違った。
 ソロはトニーを縛らない。
 トニーもソロを縛らない。
 お互い、愛し合ってはいるけれど、いつだってふたりの間には仕事が横たわって邪魔をする。だから、これくらいざっくばらんで名前のない関係がちょうどいい。確かめたわけではないが、そう思っている。

「オーガスト・ウォーカーというんですよ」

 それでも、すこしの嫉妬を引き出してみたくて、その子の名前を出す。ソロは、器用に片眉を上げてから「夏生まれみたいな名前だね」とだけいった。嫉妬は引き出せなかった。いつだってそうだ。この駆け引きめいたやりとりに勝ったことは一度もない。

「ウォーカーくんによろしく」

 ソロは、また任務へ赴いてしまう。しばらく会えなくなるからととりつけた逢瀬なのに、セックスはおあずけらしい。「彼まで嫉妬させたいのかい?」なんて、先程の目論見までばれていた。
 代わりに短いキスをして、彼を見送る。
 この関係のいいところは、かならずしも肉体での交わりがいるわけではないというところなのかもしれない。こんな、子ども騙しみたいなキスでも満ち足りてしまうから。

「ははは、じゃあ、彼にたくさん抱かれて、次に会うときはもっと綺麗になっていてくれたまえ」
「はいはい、分かりましたよ、ダーリン」

 相変わらずよく分からないことをいうソロに、意趣返しのつもりで普段はいわない呼称を使うと、彼はびっくりとして目を見張り、「やっぱり抱いておくんだった……」といって旅立った。

──これで一勝だ。

//

 そんな会話があったせいかなかったせいか、トニーは今夜もオーガストに抱かれていた。若い子特有の、ありあまる体力に追いつかず息を切らしながら。

「何か考え事?」

 ふと、最中に意識がそれていたのを目ざとく指摘され、トニーはぎくりと体をこわばらせてしまった。肌と肌を密着させているいま、それは致命的なくらい相手に答えを提示していた。

 「ひどいなあ、俺だって傷つきますよ」という顔は、ぜんぜん傷ついた風でもなくて、口髭に隠れた口角が微笑っている。こんなものは、情事のスパイスだとでもいわんばかり。

「君とは別の男のことを考えていた、といったら?」

 それでつい、余計なことをいった。
 オーガストの目がぎらりと光る。彼は若い。若い子は、縛りたがる。なかに入っている彼のペニスが、ひとまわり怒張したのを感じた。

「それが冗談じゃないなら、あなたの頭に入り込んで相手の首を締め上げたいですね」

 おそろしいことをいう。CIAのハンマーとあだ名するだけの、力強く乱暴な物言い。唐突に、きゅん、と後ろが締まった。
 それを体で感じ取ったオーガストは、「へえ、何を想像したんだか」と小馬鹿にしたような言い方で、雑にトニーの唇を奪った。まるで嫉妬したみたいに。

──そうか、これかもしれない。

 ソロとは違う、苦しいほどに自分を縛り上げていく、むき出しの感情。それは熱く、トニーの胸にぼたぼたと蝋のように落ちてくる。冷えて固まり、身を閉じ込める檻。誰にもやらないという独占欲。

「ふふ、嫉妬したのかい」

 馬鹿だなあ、と若いなあ、という感想がいっしょくたになって、すこしからかうような口調になってしまった。けれど、オーガストは、めずらしく自分に笑いかけてくれるトニーを見てきょとんとしている。

「君のことを考えていたんだよ、オーガスト」

 そういうと、オーガストは、ほんのすこし訝しげにしていたけれど、トニーが彼の顔に手を添えて「続きは?」とねだると、舌打ちをして律動を再開した。

──ずるい大人になってしまった。

 ソロが自分をからかうとき、こんな気分なのだろうか。だとしたら、ちょっと癖になってしまうような心地だった。
 上り詰めていく感覚のなか、トニーは窒息しそうなほどの嫉妬を感じていた。それは、ふわふわとした名前のない関係にはない、重りのような感情だった。

──心配ならば、君のことしか考えられなくしてくれ。

 心のうちでそっと呟きながら、トニーは心地よくオーガズムに溺れていった。そのまま泥のように沈んでしまいたいと思わせるような、透明な錨をおろして。