──振り返って、ホテルの清掃係はこう語る。
「ええと、その人はとても綺麗な人……いえ、華麗なるって感じの人で、裸にバスタオル一枚巻きつけただけの姿で廊下に立っていたの。片手に新聞を持って、困った顔だった。ああ、これはオートロックが掛かって締め出されてしまったのかなと思ったら、案の定そうだったみたいで。マスターキーでお部屋の鍵を開けたら、こっちが恥ずかしくなるくらい素敵な笑みでお礼を言われたわ。ありがとう、お嬢さん、って」
とまあ、こうしてホテルの一室に潜り込んだふたりは、とりあえずの根城を得た。モーテルよりも清潔感のあるいいところのホテルは、ジェイのためにタイラーが選んだ。といっても、ノースダコタの実家にあるジェイの部屋は、馬小屋に毛の生えたようなものだったから、どんな寝床だって寝られるのだが。まあ、シラミの心配をしなくていいのは助かる。
何日もシャワーを浴びていなかったジェイは、何よりも先に熱い湯に浸かりたかった。タイラーが浴槽に湯を張って、カランの使い方を教えてくれたのだけれど、なんとなく離れがたくて一緒に入らないかと誘ったら、「ふたりで入るにゃ狭すぎる」とか「恥ずかしい」とかなんとか言ってきかないので、ジェイは浴槽の中に、タイラーは服を着たまま洗い場の椅子に向かい合って座り手を繋ぐことにした。こっちの方が恥ずかしくないか? とジェイは思ったけれど、ときおり溢れる湯で服が濡れるのも気にせず浴槽のへりに肘をつく彼は嬉しそうだった。
──僕たち、ほんとうは恋人じゃないんだろう。
答え合わせをしたい問いに、きっとタイラーは正直に答えてくれるだろう。けれど、アイスクリームパーラーで恋人ごっこに付き合ってくれた優しさに甘えて、もうすこしこの雰囲気を愉しみたかった。彼を困らせるのは、結構面白いのだ。
「ねえ、髪を洗ってよ」
ジェイが頼むと、タイラーは喜んで引き受けてくれた。
浴槽の外に出した頭へ、ちょうどいい温度のシャワーが惜しげもなくあてられる。何日も洗っていなかった髪はべたついていて気持ちのいいものではない。「櫛があったら、先に梳かした方がよかったんだけどな」と念入りに皮脂を落とす彼の手つきは柔らかく、ジェイの細い髪が絡まないよう慎重だった。
「なんかこのシャンプー、女の香水くさい」
髪につける前に手のひらで軽く泡立てたシャンプーが、浴室内にふわ、と香るのにタイラーは変な顔をしていた。女の香水と評されたそれは、たしかに花のような甘い香りだったけれど不快ではない。いいよ、気にしない。と先を促せば、彼は文句を言うのをやめて仕方なく手を動かしはじめた。
「君は気に入らないの、いい匂いなのに」
「気に入らないっていうか、あんたから女の香水の匂いがするのはイヤだ」
「なにそれ」
「女にあんたを取られたみたいだから、イヤだ」
ほんとに、なにそれ。
子どもみたいに駄々をこねるタイラーが可愛くて、ジェイは思わず微笑った。それが面白くなかったみたいで、彼はジェイの顔にまでシャンプーの泡をくっつけて唸った。べとべとの髪では泡立ちがわるいので、ほとんど液体を塗りつけるようなものだったけれど。「笑うなよ」とか、「もっかい洗うから頭下げてろよ」とか、まだ真面目に髪を洗ってくれるつもりなのがよけいおかしい。結局、二度洗いしてから、これまた「女の香水くさい」トリートメントをして、あと自分でできるだろ、と拗ねたタイラーは浴室を去ってしまった。
──かわいい子。
たぶん自分と同じか、ふたつみっつ年下の成人男性を表現するにはふさわしくないだろうに、どうしてかジェイは、タイラーのことをちいさな子どもみたいに可愛らしく思ってしまう。 ──それもこれも、僕に対して子どもじみたことを言うせいだ。
「そんなに言うなら、女に取られた僕を取り返したらいい」
大きなひとりごとは、開けっ放しの扉の外で煙草を咥えていたタイラーにも聞こえた。そして、「それができたらしてるっつーの」という、よけい拗ねた口調の台詞もジェイの耳に届いていた。ふふ、と楽しそうな声を漏らして、あとはゆったりと湯に浸かることにする。
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海綿のスポンジでたっぷり石鹸を泡立てたり、それを丁寧に肌に滑らせたりする間も、タイラーは咥えたままの煙草を上下させて、黙ってジェイを待っていた。窓が開かない部屋だから火はつけなかった。なにより、入浴したての彼に煙の臭いをつけたくなかったのだ。
浴室を出てから、タイラーはバツの悪い面持ちで突っ立っている。
女の話なんかしなければよかった。格好悪いことこの上ない。まるで自分が六歳かそこらのガキになった気分だった。ジェイの前では、どうしてか格好悪くなってしまう。べつに格好つけたいわけじゃないが、わがままを言って、まるでちいさな子どもを見るようなあたたかい視線を向けられると、体中がむず痒くなるからこっ恥ずかしかった。
「ねえ、背中届かないから手伝って」
こっちが悶々としているのを知ってか知らずか、のんきな声がタイラーを呼ぶ。仕方なく、咥えていた煙草をダストボックスに捨てて浴室に戻れば、にこにことジェイがスポンジを差し出していて、その身体に銃弾の跡が残っていることに、それでも彼が生きていることに、タイラーは今度こそ嬉しさのようなものを感じて泣きたくなってしまった。
ベッドに座ったジェイの髪をタイラーが乾かす間、彼は手持ち無沙汰な様子でバスローブの端をつまんで捏ねくり回していた。最初は「こんなに便利なものがあるんだねえ」だの「どうやって風が出てくるのだろう」だのひっきりなしに喋っていたのに。ショートヘアは五分と経たず乾いたけれど、ごうごう鳴る温風の音がやんでも彼はなかなか口を開かなかった。
「どうした?」
コードを巻き取ったタイラーが会話を差し向けてもまだ、しん、とだんまりを続けている。
たぶん、ジェイは分かっているのだ。自分たちの関係が恋愛で成り立っていないことを。だからといって、それが自分たちの間に横たわる雰囲気をぶち壊すほど決定的でないことも、分かっている。しかし、真実を確かめるのも説明するのも早すぎる気がしていた。
──キスなんかするからだ。
どうなんだろう、とタイラーは思う。
べつに、それでも構わない気がしてきた。つまり、恋するタイラー・ダーデンになってもいいかもしれないと。セックスもする友人、というのはいたけれど、誰かに恋焦がれるような気持ちを抱いたことがあるだろうか。元・相棒は別だ。あいつはおれで、おれはあいつがいなければ存在しなかったから。けれど、別の肉体を得たいまなら、未練なく離れることができてしまっている。じゃあ、ジェイは? この男から離れられるか?
──無理だろうな。
それは、突然現代に来て困っているだろう彼を心配する気持ちと重なるのかもしれない。けれど、自分が面倒を見なければ、いや、面倒を見たい、という気持ちは、恋のような感情に近いのかもしれない。どうかな。理屈をつけて離れがたいだけだ。ふたりの人間の関係が恋愛に終始するのも、ありきたりでつまらない。たぶん、おれたちはまだ模索してる最中なのかも。どうなりたいか。どうありたいか。なにせ、居場所も存在意義もとうとつに失ったふたりだ。しばらく宙ぶらりんに過ごすのもわるくない。
「でもまあ、セックスでもしてみるか?」
「ふ、したくないくせに」
ジェイもおんなじことを考えていたのだろう。恋人「ごっこ」くらいがちょうどいいのかも。共犯者めいた顔でふたり、くすくすと笑いあう。
「ジェイ、おれはさ、女からあんたを奪い返したいと思う気持ちはホントなんだよ」
「その女、ていうの、君は彼女を知っているんだね」
「知ってる。彼女があんたに電話を掛けてこなかったことも、葬式に来なかったことも」
「そう……そうか……」
なんとなく、そうだと思っていたよ。
ジェイが静かにうなだれるのを引き寄せる。派手な柄のタンクトップに細いブロンドが擦れて、せっかく綺麗に整えた髪がくしゃくしゃになるのも構わず、タイラーはその頭を混ぜっ返して慰めた。忘れちまえ、そんな女。と言いたいのをぐっと堪えて。言ったら、きっとジェイは「忘れられない」と返すだろう。それは聞きたくなかった。代わりに、「でも、おれはあんたのそばから離れない」と耳元で誓った。あんたを置いていかない。あんたをひとりにしない。ぜったいに。ぜったいに。ぜったいに。
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目が覚めると、開けっ放しだったカーテンからこれでもかと日差しが差し込んでいた。ひどく眩しい。ちょうどタイラーがジェイの影になっていたので、隣からはまだすやすやと寝息が聞こえる。あんなに何日も眠っていたのに、眠気っていうのはしぶとくやってくるものらしい。あのあと、胸の中で眠ってしまったジェイを寝かせ、自分も横になったものの不眠の気があるせいかしばらく眠れず、彼の睫毛を数えたり鼻の頭を触ってみたりしていたが──気づいたら寝て起きて、朝である。
ホテルをあとにして、近所のコインランドリーから適当な服を調達してジェイに渡す。まあ、わるい子。とくすくす笑いながら言われてまんざらでもない顔のタイラーは、これから何があるにせよ、昨夜の誓いを忘れまいと胸に刻み直した。ジェイの笑った顔は、それくらい大事に思えたのだ。
「なあなあ、朝飯何食う?」
盗んだスポーツカーを走らせながら、目的地も決めずにエンジンを掛けてしまったな、と思う。昨日はふたりともアイスクリームしか食べなかったし、ジェイは何日も流動食だったろうから消化にいいものとか? なんて考えていたのに。
「思いっきり濃い味のものが食べたい。シャンパンも飲みたいし」
なんて言うから。
タイラーは有名なハンバーガーショップのドライブインに寄って、チーズバーガーのセットにジンジャーエールを注文した。なにぶん食事に興味も関心もそうなかったので、目についた赤と黄色の看板で妥協したのだ。ジェイはジンジャーエールを一口飲んで「全然シャンパンと違う……」と舌を出し「僕の知ってるジンジャーエールはこんなに強い炭酸じゃなかった……」なんて文句を言っている。そうか、そういう変化にも慣らさなきゃな。と、車の中で残りの包みも広げる。途端に濃いジャンクフードの匂いが広がって、オープンカーに吹き込む風がさらっていった。
「ハンバーガーだ!」
腹が減っていた様子のジェイは、たいして美味そうでもない薄くてフニャフニャした代物にぱくついて楽しそうにはしゃいでいた。ハンバーガーって、一九二〇年代にもあったのか?
「あったけれど、チーズ入ってるのはなかったから、はじめて食べた」
「そう? いまじゃ珍しくもなんともないよ」
それより、好奇心旺盛にバンズを解体しようとしているジェイの方が面白い。「こういうの、ちょっとずつ教えてね」と念を押す彼は、環境に慣れようと必死なのかも。それか、ほんとにただ好奇心旺盛なだけか。どっちにしろ、変化に慣れなきゃいけないのはお互いさまだ。タイラーは、肉体を得てはじめて食べる固形物の感触に慣れなかった。栄養補給は元・相棒の仕事だったし。口の中で犬の餌を混ぜているような感覚が違和感全開でおかしかった。
「変な顔してる」
「なんか、実体に慣れない」
「なにそれ」
ジェイがポテトを一本つまんで、タイラーの口元へ差し出す。
いわゆる「あーん」とかいうやつだけど、ジェイにそんな気がないのは「これすごく身体にわるそうでおいしい」と言っているので分かった。身体に悪そうなものを人に押しつけんなよ、と楽しくなってきたタイラーは、甘んじてポテトをかじった。塩と油と炭水化物の味。まだ空中にとどまったままのジェイの指についた塩まで舐めて、ほんのり花みたいな匂いのする肌も味わえば、食事っていうのもまあ、いいかもしれないと思えてくる。
指までぱくつかれたジェイは、「犬みたい」なんてのんきなことを言ってて。ああ、昨日の夜、「セックスでもしてみるか」と聞いて「したくないくせに」と返されたのに同意したはずが。ちょっとだけ、またキスをしてみたくなって、パティとポテトの油でつやつや眩しいジェイの唇に噛みついたら。彼は一瞬まんまるにした目をすっと細めて、油っぽい指先でタイラーのおとがいに絡みついてきた。べったり舌に移るチーズの味とか、ピクルスの酸っぱい匂いとか。
ジャンクフードっていうのは一般的には身体に悪いと言われているけれど、ジャンクフード味のキスっていうのは、もしかすると健康にいいかもしれない。なんて。馬鹿みたいなことを思ったタイラーは、でも、これをジェイに話したら分かってもらえるかも。と考えて、それに、いま唇を離すのはもったいない気がして。冷たいジンジャーエールがぬるくなって、炭酸が抜けて、ただの濃い砂糖水になるまで、ずっとふたり、唇を味わっていたいと願った。
──振り返って、ハンバーガーショップの店員はこう語る。
「なんかね、そのカップル、ずーっとキスしてんの。あたしが別の客の注文とって車に持ってく間も、ずーっと。最初はバカップルかよって思ったけど、やっと離れたと思ったらめちゃくちゃ悲しそうな顔するの。えーっ、かわいい! って思っちゃった。そのあともなんとなく様子見てたけどさ、くっついてハンバーガー食べててなんかいいなあって。でも、あんまり見すぎたせいかな。茶髪のおにーさんの方がこっちに気づいてさ、ムッて顔してエンジン掛けて行っちゃったの。わるいことしちゃったかな……あ、もう休憩終わっちゃう。あのふたり、また来てくれるといいな。お詫びにポテトのサイズ上げるから」