自分を探す声をやり過ごし、ジャック・コンラッドは庭に面したバルコニーに逃れた。ちょうど重たいカーテンが影になって姿を隠してくれたので、しばらくここで時間を潰そうと思ったのだ。
時計は深夜の二時を過ぎたところだが、これくらいハリウッドではまだ序の口。乱痴気騒ぎはおさまるところを知らず、あちこちで男も女もそれ以外も動物のように歌い踊りファックにいそしんでいる。そこがこの世界のいいところであり、倦んでいるところでもあった。
今朝、何番目の妻か忘れたが、彼女に離婚を宣言されて承諾し、くさくさした気持ちをぱっと晴らしたいとパーティーに足を運んだのだが──期待はずれだった。いつもと同じ。狂乱と狂騒と代わり映えのしない面子。あわよくばジャックとお近づきになりたいという女たちを丁寧にあしらい、シャンパンの瓶とグラスをひとつ持ったまま逃避行だ。
現実から逃げたくて非現実を求めて来たというのに、非現実すら日常と化したらいったい何処へ逃げればよいのだろう。はあ、と大きなため息を吐いていると、ふいにカーテンの向こうから男が現れた。
「おや、先客かな」
彼もシャンパンのグラスを持ったまま、喧騒から逃げてやってきたらしい。
「うちでもパーティーは開くけれど、ここはすごいね。夜が深まるにつれてみんな服を脱いでしまうんだもの。さっき乱交に誘われたけれど、ウエストエッグでは考えられないことだから、つい断って逃げてきてしまった。ふふ、ハリウッドの強烈な洗礼を浴びたよ」
「いやいや、これはまだ序の口さ。そこかしこでファックしはじめたら今度はクソを垂れ流しはじめるぞ。一張羅を汚さないよう気をつけないと」
「あっはは、まさかそんな……からかっているでしょう?」
「いいや、僕は去年それで靴をだめにしたよ」
「ふふ、動物園みたい」
「違いない」
肩を震わせてくすくす笑う彼は、ジェイ・ギャツビーと名乗った。
ニューヨークの資産家。邸宅で週末ごとに開かれるパーティーに映画関係者もよく来るそうなのだが、そのなかの一人に誘われたため、わざわざハリウッドまで来たらしい。「連れは何処に?」と聞くと「いまごろ乱交の最中じゃないかな」と返ってきた。
「かわいそうに。そいつはきっと、あんたとファックしたかったんだろうに」
「うーん、だと思った。でも、僕の心はあげられないから」
どうやら身持ちは固いらしい。
夜空にきらめく見事なブロンドに、中で泳げそうなほど青く綺麗な瞳。世の汚れを知らないとでもいうような純白のスーツに身を包んだ彼は、清廉な見た目通り、ニューヨークの上品な金持ちというわけか。心はあげられないから、身体も、と。がぜん彼に興味が湧いてきた。ジャックはジェイの持つ空になったグラスへシャンパンを注ぎながら、もっと君と話したいと目で合図を送る。
「あなたの名前も知らないのに? ふふ、嘘。知らないわけがないでしょう。銀幕の大スターさん」
彼の会話は遊びがきいていて愉しい。
映画俳優のジャック・コンラッドでも、空虚な愛をささやく夫でもなく、ただひとりの男として話せる相手は貴重だった。ハリウッドの気候に慣れないと言う彼にネクタイを緩めるようすすめ、自分もタイを解いてしまう。首元が緩んで気持ちもほぐれたのか、バルコニーに寄りかかってほうっと夜空を見上げる彼はリラックスしてずいぶん年若い少年のように見えた。それもそのはず、若き資産家どのはジャックとは親子ほど年の差があった。
誰にも言ったことがないのだけれど、と前置きして、彼は自分の半生を語る。
ノースダコタの赤貧家庭に生まれたこと、十六で家を飛び出し港で働いたこと、億万長者の男を助けて面倒を見てもらったこと。ジェイ・ギャツビーとはそのときにつけた理想の名前で、本名はジェイムズ・ギャッツということ。誰にも話したことのない秘密を、なぜ? と聞けば、彼は微笑んでこう答えた。
「ここはニューヨークじゃないから」、と。
「ここには僕のことを知る人がすくないから、つい気が緩んでしまったのかもしれない。それに、あなたはいい聞き手だし、秘密を言いふらすようには見えないから」
「もちろんさ、君の見る目は正しい。このジャック・コンラッドは、人の秘密を漏らすような真似はしないよ。とくに友人のは、ね」
──ありがとう、僕を友人と言ってくれて。
そう呟くジェイの顔がすこし悲しげだったからだろう。ああ、きっと彼も同じなのだ。と思った。彼も同じく、富と名声に集まる人々に倦んでいるのだ。乱痴気騒ぎに加わることなくひっそりとカーテンの影なんかに隠れて、パーティーが終わるのをやり過ごす。夜はまだ長い。ふと、ジャックはジェイを連れて何処か遠くへ行きたくなった。
「そうだ、逃げよう、ジェイ」
ジャックはシャンパンのグラスが落ちるのも構わず、いきおいよくジェイの手を掴むとバルコニーから駆け出した。
「逃げる?」
「そう、愛の逃避行!」
「あはは、あなたって面白い! 愛の逃避行!」
ジェイもグラスを放り出し、ふたり夜を駆ける。
カーテンを飛び出し、人混みをかき分け、ときおり呼ばれる名前も無視して、ひたすら足を動かした。アルコールと人いきれでくらくらするのも構わず、一心不乱に外を目指す。重たい扉を開けて、砂利道の駐車場を駆け抜け、喧騒の届かない静かな夜の闇へ。頭は冴えていた。ひどく息切れするのは、けして走ったせいだけではない。
恋する少年のように胸が高鳴っていた。ジェイもそうだといいのに。ジャックは後ろを振り向いて、彼がついて来ているか確かめる。大丈夫、そばにいる。と目を細めて視線で応える彼の胸も、同じように高鳴っていた。
ほんとうに愛の逃避行みたいだ。
駐車場係がとめた車までたどり着くと、やっと足をとめたふたりは荒く呼気を吐き出しながら笑ってしまう。何処までも行けるような気がしていたのに、ここまで来るのがやっとじゃないか。
馬鹿みたいに笑って、肩を抱き合って、額をくっつけてお互いの目の中を覗き込む。でも、本気だったね。そうさ、本気だった。見つめ合った視線が熱を帯びて、潤んで、このままキスでもしてしまいそうなそのとき──。
「ギャツビー!」
若い男の声がジェイの名前を呼ぶ。
シャツのボタンはほとんど取れて、ベルトも緩みスラックスの前を開けっ放しにした、顔だけはやたらといい青年だった。彼はジェイを見かけてあわてて追いかけてきたらしいが、なにぶん酔っているのと興奮気味なのでろれつが回っていない。
ああ、あれが乱交をけしかけてきた奴か。
いい雰囲気をぶち壊しにされて気分を害されたジャックと違って、ジェイはほっとした面持ちで男の方に足を向ける。靴が左右逆になっているよ、などと言って履き直すのに肩を貸したり、そろそろお開きにしたほうがいいんじゃないか、僕もおいとまさせてもらおうと思っていたんだ。なんて言い訳したり。まるでさっきまでの空気がなかったかのように振る舞う。
「じゃあ、僕らは失礼させてもらうよ」
あげく、男を伴って帰ろうとするから。
ジャックは怒りよりも失望の方が勝って、何も言えずに見送るしかなかった。どっと疲れが押し寄せて、車にもたれかかる。煙草が吸いたかった。懐からシガレットケースを取り出して一本咥え、マッチを擦ろうとして──しゅ、と眼の前に明かりがともる。見れば、戻ってきたジェイが火をおこしたのだ。
どうして、と煙草に火をつけるのも忘れて聞けば、彼は恥ずかしそうに「照れてしまって」と答えた。
「続きはまた次の機会に」
ジャックの手にマッチを握らせると、ジェイは自分を呼ぶ男のもとへゆっくりと歩いて行ってしまった。しかし、さっきのような怒りも失望も、ジャックは心の内に感じられなかった。ただ、じわじわと温かい嬉しさのようなものが湧き上がってきていた。
このマッチはきっと、もったいなくて使えないだろう。また会ったとき、一本も減っていないのを見咎められたら、どんな言い訳をしようか。いまからそのときが楽しみで、ジャックはくつくつと笑いを押し殺しながら、次に顔を合わせたらまっさきにキスをしてしまいたい、と願うのだった。