「卒業が危うい……」
「いままでのツケだろ」
冷たく言い放つジムに慈悲はなかった。あたりまえだ。ドワイトの言う危うさは、数々の愚行と勉強不足のたまものなのだから。なにせ、授業態度の悪さに加えて成績不良、素行不良、おまけに奨学金を掛けたバスケットボールの試合での乱闘。話でしか聞いたことのないジムでさえ、「馬鹿じゃん」と思っているので、周囲の反応はもっと冷たいだろう。
「いいなあ~~ジムは執筆業に専念するんだろ? 勉強教えてよ」
「いいけど、いまからじゃ間に合うかな。素行態度もよくしろよ」
「ううっ、がんばる……」
きっと先公連中には「いまさら」と嘲笑われるだろう。それでも耐えろよ、という意味での「よくしろよ」だった。でも、ドワイトはこれと決めたら真っ直ぐ進めるタイプだし、リーダーシップがあるところなんか好かれそうだし、なんだかんだ愛されてるって感じだからなんとかなるだろう。あとは成績だけだな、と机に広がる参考書をざっと眺めた。ジムだってそこまで成績優秀なわけではないけれど、いちおう奨学生としてエリート校へ進学したこともあるので、勉強はそこそこ出来る。
休校日にドワイトがジムの居るマンハッタンへやって来るのは、もう何度目だろう。人生をめちゃくちゃにした日々から脱出し、またこうしてドワイトと普通に会うようになって、いまなんか彼に勉強を教えている。奇跡みたいだ。そう、ジムはドワイトに恩があった。ドラッグに溺れてどうしようもなくなっていた自分を捨てないでいてくれた恩だ。けれど、そのことに触れるたび彼は「あんまり重く考えないでよ」と言う。
「あんまり恩とか、重く考えないで。前みたいにふつーでいいから。俺にはジムが必要だから助けたいって思ったんだ」
にへら、と笑うドワイトは、そういえば恩着せがましくしたことなんて一度もなかった。ほんとうにジムが生きててよかったあ、と大きくため息をつく姿は、のんきに見えるほどだった。お人好し。こいつ、俺がいなかったら女とかに騙されてそう。とか思ったのは内緒だ。けれど、そんなだから、ジムはドワイトのそばに居ると落ち着く。
──そうだ、そばに居るの、楽だな。
そう思ったら、ぽろり。「卒業したら、ふたりで暮らさない?」と願望が口から出ていた。
「えっ、同棲……ってこと?」
「あ? あー、そうなるか……同棲……。うん、しよ」
「えーっ、え、いいの?」
それなら俺、勉強がんばってこっちの大学受ける! と意気込むドワイトの台詞を聞いて、やっと実感した。あ、やっちまった、と。もうとっくに彼の人生を自分に巻き込んでいるというのに、このうえさらに同棲なんかしたら。ドワイトのことだ、一生の約束までしてきそうだな。そんなの迷惑じゃないだろうか。元ジャンキーの恋人ってだけでも世間からいやな目で見られるだろうに、ていうか、ドワイトっていいところの息子なんじゃなかったっけ。
そう考えだしたら、じわじわと後悔がせり上がってきた。でも、肝心のドワイトはすごく乗り気で、その後の勉強にも熱が入ってどんどん巻き返していったし、いつの間にか家族に同棲の報告をして許可(卒業して進学出来たら、という条件つき)(あたりまえだ)も得たみたいだし、提案したジムよりずっと先のことまで見据えていろいろと動き出していた。
──あー、いまさらやめだなんて言えないか。
覚悟を決めたのは、「俺、卒業も進学も決まった!」というドワイトの電話を受けたときだった。ちょっと厳しい進路だったけれど、勉強の追い込みといい推薦状を書いてもらってなんとか決まったらしい。「卒業式にはさ、ジムも来てよ」と言う声がちょっと不安そうで、まるで懇願するみたいな様子だったから、ジムはとうとう決心を固めた。
引越し先の相談とかしたいし、とか、最近受験に集中するからって会えなかったじゃん、とか、ドワイトがぽつぽつ話す言葉のすべてに、「うん、うん」と頷いて、最後に「親には恋人とルームシェアするって言ってあるから……」というのにも「うん」と応えた。うん、俺もちゃんとお前とのこと考えてるから、と。
電話を切ってから、そうか、一緒に暮らすってこういうことか、と思った。
ドワイトとジムはまだ子どもで、他人同士で、かろうじて「恋人」という名がついているから一緒にいることを周囲に説明せずにすんでいる。でも、住居を借りて同棲するとなれば、とたんに社会的に何者かを証明しなくてはならない。とくに、ジムは進学するわけでもなく将来の保証もない作家という稼業に身を置くと決めたので、相手方の親からどう見えるか。
──でも、俺も決めた。ドワイトと暮らす。
そうなれば話は早い。ジムも母親に「九月から恋人の進学する先で一緒にルームシェアする」と伝えた。彼女はびっくりして夕食の支度をしていた皿を割ってしまったけれど、一拍後には天に祈りを捧げて喜んでくれた。息子の前進に、と普段飲みもしないのに急いでワインを買ってきて乾杯してくれて、残りどうするんだよと言うジムに「お料理に使うわ」と微笑む姿は、ほんとうに嬉しそうだった。
「でも、相手の親の意見もあるから」
「あら、弱気なの?」
「弱気にもなるだろ、脛に傷だらけだよ俺」
「それでもあなたは私の大事な子だからね。だめだったら隣の部屋に越しちゃいなさい」
ワインの一杯でご機嫌になった彼女は、ジムのいちばん欲しかった言葉をくれた。それに、最悪の場合の策も授けてくれた。たしかに、だめだったらそれでもいいか。そう思ったら気持ちがだいぶ楽になった。母親というのは、こんなに頼りがいのあるものだったっけ、とジムは思いながら、グラスに残っていたワインを飲み干した。
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「なんかあっさりだったな」
「なんかあっさりだった」
気構えていたドワイトの両親との対面は、驚くほどあっさり終わってしまった。「君がジム・キャロル?」「はい」「ドワイトをよろしく頼むよ」「はい」これで終了である。あとから聞けば、ドワイトの両親はジムのことを「息子の進路を救ってくれた」といちおう恩には思っているらしいが、それ以上の興味はないのだとか。
「たぶん、別れると思われてる」
「うわ」
自分の半生までも語る覚悟を持って挑んだジムは空振り感が半端なかったけれど、それくらいの距離感で助かったという気もする。脛に持つ傷のことを話さないままでいるのはなんとなくやましい気もしたが、ドワイトが「いいじゃん。いつか話す日が来たらそのとき考えよう」と言ってくれたのでよいことにする。
「なー、物件もうリストアップしてあるんだ」
と、にこにこしてメモを取り出す彼は、親の態度に慣れっこなのだろう。大学近くのアパートをいくつか挙げて、今週のうちに物件の見学を予約しようとぽんぽん提案してくる。一緒に暮らそうと最初に言い出したのはジムの方だというのに、いまではドワイトの方がよほど熱心だ。
「つーか、家賃の予算とか決めてないのに」
「えー、ぜんぶ仕送りしてもらえばよくない?」
「ばっか、同棲に金出してもらうってどんだけ面の皮厚いんだよ俺」
微々たるものだがやりくりすれば暮らしていけそうな程度の収入を得ているジムは、まだそのことをドワイトに話してはいなかった。まあ、家賃は折半と考えて、彼の分が仕送りなのはしょうがないだろう。それより勉強をがんばってもらいたい。また卒業出来ないと泣きつかれるのはごめんだ。自分の分は自分で出す。それが同棲する恋人としてのプライドだった。
「家賃は折半、俺は自分で出す、お前は仕送りしてもらえ」
「いいの?」
「その代わり試験前に泣きついてくるなよ」
「それは自信ないなあ」
何を話してもにこにこして嬉しそうなドワイトは、浮かれっぱなしで使い物にならない。
──こいつ、やれば出来るのにやらなきゃマジで出来ないからな……俺がちゃんと課題の締め切りとか管理した方がいいのか?
などとジムが思うのも無理はないのであった。
まだ物件も決まっていないのにお揃いの歯ブラシのことなんかを話している彼は、まさにしあわせの絶頂という感じで、ほんとうに足元が浮いているような気もしてきた。どうどう。手綱を握ってリアルな話に持っていく。
ふたりでファストフード店に入って、そのへんのことを詰めながら昼飯を食べた。あんのじょう、予算とか住む地区とかそういうことは頭からすっぽり抜けていたらしいドワイトの代わりに、ジムは大学周辺の交通の便とか治安のことを教える。「へえー、ジムって頼りになるなあ」とのんきにのたまう彼だって、熱意と行動力だけは人一倍あるのだ。
ずず、とシェイクを啜りながら、これからのことを考える。
ドワイトもジムも、遠距離恋愛から突然の同棲となれば、いまみたいに認識のずれとか、価値観の違いとか、意見の齟齬とかが生まれるだろう。頻繁に会ってる恋人同士が一緒に暮らし始めたって失敗する例は、ままある話だ。じゃあ、自分たちは? こんなに急にいろいろ決めようとしているけれど、だめだったらどうするんだろう。
ジムは、ドワイトのことを一生で最後の相手にしたいと思っていた。めちゃくちゃ重たいけれど、人生を救われたっていうのはそれなりに意味を持つもので、彼がいくら「重く考えないで」と言っても無理なのだった。
──だって、お前がいなかったら俺……。
最悪の想像。またあの地獄みたいな日々に舞い戻ってしまうかもしれないという不安。恋人を更生の支えにするというのは、効果が大きい分、反動も大きい。もし、ドワイトと別れるようなことがあったら、きっとバッドトリップよりずっと落ち込んでシューティング・ギャラリーに走ってしまうかもしれない。
──でも、そんなことぜったいに言えない。
言ったら脅しだ。別れたら死んでやるって喚く女みたいな。だから、わざと彼につっけんどんな態度を取ってしまうのかもしれない。どれくらいなら許される? みたいな。思えば、遠距離で会っていた頃は後ろ暗い姿を隠せてよかった。けれど、いつかはボロが出る。ドラッグに溺れていることだって、ズタボロの生活をしていることだってバレた。捨ててほしかったのに、拾い上げられて、救ってもらって。それと同じように、無理したっていつかはバレるから、もう装ったり隠したりはしないと決めている。重たい愛みたいな感情は別だけど。
──なんか、今度はドワイトに依存してるのかな、俺。
それはなんか、やな感じだった。彼はいろんな人に好かれるし、愛されてるし、求められている。もし依存しているとしたら、ドワイトにとってよくない影響になるんじゃないだろうか。
「なに、腹痛いの?」
ふわふわのブロンドヘアが視界に入ってきた。ひょこ、とジムの顔を覗き込んでいるドワイトは心配そうに青い瞳を揺らしている。「なんでもない」と言うことも出来たけれど、嘘はつきたくなかったから「なんか、一緒に暮らすの不安だなって思い始めちゃってさ……」と正直に打ち明けた。嘘はついてない。お前に依存してるかもっていう不安のことを話してないだけ。
「えっ、なに、マリッジブルーなの? 大丈夫?」
「マリッジブルーって、ばっか、それは結婚前の……ふ、くく」
ドワイトのとぼけた発言に笑いを堪えきれなかったジムは吹き出した。心配してくれた彼にはわるかったけれど、まだかけらも見えていない別れ話に怯える自分が馬鹿だって気づいた。だって、「えー、ジムとなら結婚したいから、そんときのためにとっといて」なんて付け加えるんだから。マリッジブルーをとっとくってなんだよ。わけの分からない言い分にもよけい笑ってしまって。
「いい、大丈夫。お前と暮らしたら毎日楽しそうだって安心した」
「ほんと? よかったあ、俺マジで同棲楽しみなんだもん」
この世でいちばんのしあわせ者ですって感じの顔したドワイトを見ていたら、なんとかなる気がしてきた。そうじゃん、覚悟決めたって、思ってたのにな。やっとそれが固まった感じ。
「とりあえずさ、一緒に暮らしてみて、だめだったら隣同士になろう。そんで、毎日どっちかの部屋で過ごしてさ、これなら一緒に暮らした方がいいじゃんってなろう」
「それってすごく遠回りな馬鹿じゃんか」
「あっはは、馬鹿やろうよ~~」
なんだかいい感じに気が抜けたら空腹を感じてきたジムは、「なんか追加しよーぜ」と席を立った。それにドワイトがついて来るのをすこしも疑わなくてすんだ。なにせ、彼はぴったりとジムの肩に肩を寄せ合って離れないのだから。
ぐり、と押しつけられる質量が心地よくて、ジムは「ちけーよ」とも「ちょっと離れろよ」とも言えず、このままずっとドワイトの身体のどこかしらをくっつけて暮らしたいなあ、なんて惚気けたことを考えながら、彼の肩が追いつけるようゆっくりと歩くのだった。