WHAT MAKE A GOOD MEN? - 11/11

//もしもの受胎告知

 

 とくとくとあたたかい心臓の音を聞いていると、生命の神秘を実感する。こんな、握りこぶし大の臓器が死ぬまで何十年も止まらず動き続けているなんて、不思議だ。

 眠るトニーの柔らかな裸の胸に耳を押しつけて、オーガストは目を閉じた。セックスをした後のせいか、平常時よりかは心音が速い気がする。こんなに近くまで寄れるのに、触ることはできない。いや、感じる方法はあるが、一瞬で鼓動を止めてしまうだろう。オーガストは、ナイフ戦における絶対致死の距離を思い出していた。体型によって違いはあるが、おおむね数センチあれば胸郭からナイフを滑り込ませて心臓に到達させられる。鼠頸部から鎖骨の間に刃を垂直に入れれば、だいたい二十センチほどだ。彼は、トニーの心臓にナイフの刃を入れることを想像してみる。

 こんなにあたたかくて柔らかくて、無防備な身体。室温に置いておいたバターのように刃を飲み込むだろう。もちろん、オーガストはトニーを死なせたいわけではない。ただの思考実験のようなものだ。心臓に到達した刃から柄に、とくとくと鼓動を感じるだろうか。いつも、ナイフで人を殺すときは、戦闘状態で一瞬の油断が死を招くので、それを感じる余裕はなかった。いまなら、とっくりと堪能する時間も余裕もある。だが、しない。トニーを傷つけたくないし、ましてや殺したりなんか、できるはずがない。思考実験は終わりだ。

 なぜ自分がいまさらこんなことを考えてしまうのか、オーガストには自覚があった。今日、ナイフで人を殺したからだ。職務で。暗殺の任務を与えられ、それを実行した。それだけのことだった。いつもの仕事。いつものやり方。しかし、今日のターゲットは戦闘経験もない学者で、抵抗するだけの力も持たない病人だった。自宅で療養中の、セキュリティが甘いところを狙って侵入し、強盗に見せかけて殺す。眠っていた対象を始末するのは簡単だった。それよりも、偽装工作のほうがいろいろと手順を踏んで面倒だったくらいだ。

 別に、人を殺したくらいで興奮はしない性質だ。冷静に任務をこなし、冷静に現場のチェックポイントを確認し、冷静にその場を去った。それだけだったが、それだけだったからこそ、何か足りないような気がして、いまこんな思考実験でその穴を埋めようとしているのだろう。足りない? 何が。命のやり取りをするような、アドレナリン全開の戦闘を望んでいたとでも言うのか? それとも血が足りなかったか?

──俺は殺人狂じゃあない。

 だが、身体は、頭は、次の任務で奪う命のことをいつも追っていた。対象は誰か。なぜ殺すか。どうやって殺すか。このうち、「なぜ」には答えがつくときもあれば、秘匿されるときもあった。オーガストには、それがいちいち気になった。人はいつか死ぬものだが、それにはしかるべき理由があって欲しかった。ましてや、犯罪者や反逆者だというならば、なおさら知りたかった。なぜ殺す? なぜ命を奪う? 俺のやっていることは正しいのか? 利用されているのか?

 そう思い始めると、上に対する不信感は日々募っていった。今日の任務もそうだ。理由を聞かされなかった。それで、もやもやと腹の底に澱が溜まるように、また不信感も溜まっていったのだろう。今夜のトニーには、その澱を散らすためにすこしばかり激しくしてしまった感が否めない。現に、彼は疲れきって眠ってしまっているし、こうしてゆるやかな殺気を送っても起きない。

 オーガストは、トニーの胸から耳を離して、シーツをゆっくりと剥いだ。セックスの跡が残る肢体が、だらりと放り出されて無防備に眠っている。そういえば、彼はシャワーも浴びずに眠ってしまった。後処理をしないと、男同士の行為では後々面倒なことになるという知識だけはあったので、オーガストはティッシュを何枚か取ってトニーの後孔へと指を伸ばした。横たわる彼の脚を開かせ、ティッシュを敷いてなかの精液を掻き出すのだ。

 もしかしたら、途中で起きてしまうかもしれないが、そのときはシャワーをすすめよう。と思いながら、オーガストは後処理をした。開いた脚の隙間からのぞく臀部、その奥の、さきほどまで自分のものを咥えこんでいた場所。そこへ指を差し入れると、ぬるりとしたものが溜まっていた。オーガストの精液だった。中指と薬指を入れて、自分の吐き出したものを掻き出す。どろり、どろりとティッシュの上に落ちてくるものを見ていると、次からはきちんとスキンをつけるべきだと実感した。痛々しすぎるし、惨めだ。俺の死んだ種たち。と思うと、なんだか晩年の詩人にでもなったような哀愁があった。

──これが、あなたに根づけばいいのに。

 とは、さきほどとはまた違った趣向の思考実験だった。俺の種を飲み込んで、根づかせて、そうして、腹をふくらませるトニー。彼が女でなくてよかった。ほんとうに孕ませてしまったら、その子どもは不幸だ。なぜなら、俺の澱を含んだ種なのだから。きっとお前も人を殺す仕事で食っていくようになる。物騒な考え。けれど、もし、あなたがぜんぶ飲み込んで、こうして排出してくれるなら。俺の澱は捨てられて、何もなかったかのようにまた明日を迎えられる。そうだ、トニー。あなたは俺を浄化してくれる聖母のような存在なのだ──と考えたところで、酷い妄想だと思った。宗教じみていて、そのくせ、教義を汚すような物言いだ。この思考実験は失敗におわった。オーガストは、あらかた掻き出したものをティッシュで包んでダストボックスに放り込んだ。

 ふと、まだ深い眠りに落ちたままのトニーの顔を見る。
 ゆっくりとした寝息を立て、半開きの口から白い歯が覗いていた。彼の癖らしい。ぼうっとしているときもよくこうなる。じっと見つめていると、寝言か何かを言おうとしたのか、不明瞭な言葉が聞こえた。なんと言ったか分からなかったが、赤い舌がちらりと見え隠れし、それがなんだか可愛らしくて、エロティックで、気づくとオーガストは勃起していた。まさか、だめだ。と思うのに、身体は抗えないようにトニーの口元へとペニスを持っていっていた。ぬる、と先走る体液のしたたる先端を上唇につけると、「ううん」と彼の頭が反対側へと逃げようとする。それをそっと押さえて、オーガストは自分のものを扱きはじめた。

 しゅ、しゅ、と速度を上げていく手。完全に勃起したと思っていたのに、無防備なトニーの唇の間近にグロテスクなペニスがあると思うと、興奮してきて、さらに膨張した。「あ、トニー、ああ」控えめな音量で名前を呼ぶ。あっという間にのぼりつめて、もう限界が近い。びちゃり、と射精を感じたときにはもう遅かった。トニーの唇にかかった白いもの。俺の精液。俺の種。俺の澱。それは、まさしく陵辱の跡といった形。うつくしいものが穢されたかのような、そういった類の興奮がそこに横たわっていた。オーガストは無意識に涙を流していた。歓喜なのか、後悔なのかは分からなかった。

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 それから、オーガストは、眠るトニーの身体に精液をかけることがやめられなくなった。うつくしいものを穢す快感と、まるでマーキングしているかのような独占欲の慰めだった。出した精液は毎回きれいに拭き取っていたので、トニーが気づくことはなかった。そうして、それがいけなかったのだろう。オーガストの行動はエスカレートした。彼は、眠るトニーに挿入までするようになっていた。この頃には、起きられるとまずいことがわかっているので、仕事で使う睡眠薬を少量だけ使うようになっていた。弛緩した身体。だらりと横たわる四肢。きれいなブラウンの宝石を隠す瞼とそれを飾るまつげ。エトセトラ、エトセトラ。これらすべてを自由にすることができるのだ。オーガストは顔を覆って笑いを堪えた。眠るトニーを穢す行為は、麻薬のように彼の心に染み付いていった。

 弛緩した重たい脚を持ち上げ、潤滑油で後孔を慣らし、挿入する。それだけならば普通のセックスと同じ手順だが、スキンは一度も使わなかった。行為の後で、手づから掻き出し処理をするのが一連の流れになっていた。今夜もぐっすりと眠るトニーへとペニスを突き立てる。この行為は、セックスとはもはや別物の儀式のような気持ちであった。神聖なものを穢すことで、自分の腹の底に溜まった澱を解消しているのだ。それは、国家への忠誠を翻すことの堤防のようでもあった。まだ大丈夫。まだ、俺は信じられる。いや、もう無理だ。募った不信がいつ反逆の息吹を上げるかわからない。──そのギリギリのストレスが、このような行為に及ぶに至ったのか定かではないが。

 オーガストは自覚していた。これは、いまの自分を保つのに必要なものなのだと。しかし、逆に蝕みもするだろうとも。当然、夜ごとこんな行為をしている恋人を知ったら、トニーは怯えるだろう。仕事で使う薬まで持ち出したのだ。そうなったら、もうおしまいだ。俺は彼の愛を失い、腹に澱を抱え続けていつか爆ぜるだろう、と。

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 あるとき、トニーがオーガストに相談してきた。いわく、最近身体がだるいのだと。ときどき吐き気もするのだと。一瞬、オーガストはトニーが妊娠したのかと思った。まったく自然に。なにせ、あれだけ生のままでしたのだから、当然だとも。しかし、「僕が女性だったら妊娠を疑うけれど、そうじゃないだろう。病気だったら困るから、病院に行こうと思う」と言われて目が覚めた。やめなければ。きっと睡眠薬の副作用だろう。ただ、トニーに真実を告白する勇気はなかった。代わりに、今夜を最後の行為にしよう。薬なしで。と考えていた。

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 トニーの寝室のベッドは、大の男二人が眠るには狭すぎるので、いつもぴったりとくっついて眠る格好になる。今夜もトニーはオーガストの胸に頭を寄せて眠っていた。そのかんばせをやさしく手のひらで撫ぜる。「ううん」とすり寄ってくる頬にキスをして、オーガストは最後の審判に立ち向かうような気持ちでトニーの脚を持ち上げた。いつもの手順、いつもの行為。と思っていたが、やはり、薬を使わなかったせいで、トニーは最中に目を覚ましてしまった。はじめは夢かと思っていたのか、ぼんやりとしていたが、オーガストが歪んだ笑みで「現実ですよ」と言うと、顔を青ざめて抵抗した。「こんなこと、嘘、嫌だ、酷い」「最低だ、オーガスト、いつから」「なんでこんなこと」抵抗の合間に聞かされる台詞は、オーガストが予測した通りのものだった。

 彼はそれにひとつひとつ丁寧に答えていった。「嘘じゃありません。本当ですよ。感じるでしょう、ほら」「酷いのは分かっています。最低です。もうずっと前から、一ヶ月は経っているでしょうね」「なんでこんなこと? それがわかったら、俺も知りたいですよ」と。トニーは正体のわからない恐怖に怯えた。恋人にレイプされていたのだから当然だ。ここまでは、予測どおりだった。しかし、ここから、期待を裏切られることになる。

「オーガスト、待って、待て、なんでお前が泣くんだ……」

 そう、オーガストは、無意識のうちにだくだくと涙を流していたのだ。あなたを穢してしまった。傷つけてしまった。信頼を失ってしまった。そう思うと、次から次へと感情が溢れて止まらない。これが後悔の涙だということはよく分かった。今更遅い。泣き落としに見えるかもしれないが、自分ではコントロール出来ないものだった。オーガストは困惑した。「違うんです」と「ごめんなさい」と繰り返し口に出し、「俺を嫌いにならないでください」と懇願した。惨めだった。今夜、審判が下ったらそれに身を任せてトニーに別れを告げようとまで思っていたのに、無理だった。実際は、捨てられるのが怖くて、惨めに謝罪しながら、別れを告げられないよう懇願している。

 トニーは、毒気を抜かれてしまった。眠っている間にされたことは責めるべきだが、ここで彼を捨てたら、もう二度と自分の目の前には現れないだろうというくらい、切羽詰ったものがあると感じていた。「……なにがきっかけだったんだ、オーガスト」できるだけやさしく尋ねた。後孔に突き立てられたままのものが萎えているのを感じる。彼はいま、すくなくとも自分を犯していたオーガストではないと思った。彼は、自分の澱の話をした。募る不信感が澱のように自分の腹に溜まっていくのだと。はじめて眠るトニーを穢した夜のことを。そのときの歓喜とも後悔ともつかない感情を。あなたに浄化してもらいたかったのだという妄言まで。そうして、それからの行為のことを。ぜんぶ、ぜんぶ話した。トニーはいたわるような目でオーガストを見始めていた。ああ、君はそこまで神経をすり減らしていたのか、と。真面目で、自分の正義感に正直な、まっとうすぎる男。オーガスト・ウォーカー。

「君が必要とするならば、僕のところへおいで。今度からは、睡眠薬なしで。そうして、二人で話そう。いろいろなことを」

 もし、滾る血を醒ましたいならば、僕のところへおいで。もし、不信感に潰されそうになったなら、僕のところへおいで。もし、必要ならば──セックスだけが解決方法ではないのだと、教えてあげるから。「君が国を信じられなくなったら、二人でここを飛び出そう。僕は絵を描いて、君はモデルになればいい。きっと楽しい」それは、オーガストにとって天啓のような言葉だった。自分にはこの仕事しかないと思っていたのだから。人を痛めつけ、殺し、死体の山を築き上げていく道しかないと。けれど、トニーは違うと言う。「君が望めば、いつだってここから逃げられるし、逃げなくてもいい。まだ君の正義は、僕が信じているから」と言う。トニーは両手を広げてオーガストを抱きしめた。あたたかくて柔らかい胸。物理の境界が許すならば、どこまででも飲み込まれていきそうな──。

 とくとくと聞こえる鼓動が、子守唄のようにオーガストを眠りに誘う。「そうだ、きっと楽しい」このとき、彼の心にはようやく平穏が訪れていた。もう何も心配しなくていいのだと。自分のしていることが正しいのか、間違っているのか、そんなことを考えるよりも、目の前のひとりを守ることに命をかけようと思った。トニー・メンデス。あなたを守るために、あなたが夜、安心して眠れるように、俺は世界を守るのだと。

──一筋の涙が、顎を伝ってトニーの下腹へと落ちた。こうして、オーガスト・ウォーカーの澱はしずかに流されていった。