//獣とダンス
ぐるる、という唸り声が室内の空気を震わせた。
獣がいるのだ。
オーガストは、飢えて飢えてしょうがない動物のようにトニーの首筋に顔をこすりつけ、匂いをつけてマーキングしていた。トニーが、どうどう、と頭を撫でてなだめると、気持ちよさそうにふん、と鼻息を吐く。夜はもう遅く、午前十二時の部屋の中はひんやりとして寒かった。ヒーターをつけるにはまだ早い季節だったので、毛布をひっぱり出して来て掛けていたのだけれど、それも引っ剥がされてしまい、よけいに寒さが裸の肌をかすめていった。
トニーを押し倒してマウントをとっている男は、言語を忘れたかのように、Gの発音をしそこねたような音を喉から出していた。そういうプレイなのか。アニマルなんとかとか、獣姦のロールプレイみたいな。トニーは動物としたいと思ったことがなかったので、ぴんとこなかった。動物というと、犬とか猫とか室内で飼う生き物のことを連想してしまう。そういう生き物は従順で、ときに気まぐれを起こすが、たいていこちらの言うことを聞いてくれる。言語の壁はあっても、信頼関係を結べると思っていた。しかし、目の前の男はどうだ。まるで野生の、サバンナとかジャングルに住んでいる未知の生き物のように思えた。そういう生き物は、まったく従順になるとは思えないし、言語の壁を超えた絆とか、信頼関係とかも結べる気がしない。つねに飢えていて、捕食する対象を狙ってうろうろと乾燥した大地を踏み歩くのだ。
「今夜のきみには言葉が通じない?」
──ぐるる。
「きみは僕を襲おうとしてる?」
──ぐる。
「いいよ、食べたいならお食べ」
ぐわ、とオーガストの口が大きく開いて、喉元に噛みつかれる。見た目の派手さよりもずっとやさしい甘噛だった。すこしの恐怖心とくすぐったさに背筋がふるりと電気信号をのぼらせる。そうして、喉仏をれるれると舌でつよく刺激され、くすぐったさの中に快感を覚えてしまう頃になると、トニーはもうすっかり猛獣の虜になっていた。自分は飢えた捕食者に喰われる獲物。
想像の中では、喉を喰い破られて、そこらじゅうにびゅうびゅうと血が飛び散っていた。出血多量の致命傷だ。トニーはだんだんと身体が冷えていき、力が抜けていくところを想像した。ことりと頭をシーツの草原に投げ出し、オーガストを撫でていた手をするりと外す。ぱたり。こちらもこと切れて投げ出されてしまった。目は開いたままにしようかと思ったが、乾いてうっかり瞬きしそうになったので、ゆっくりと閉じることにした。なかなかドラマティックな死に方だな、と思った。
トニーがこと切れてしまったのを感じたオーガストは、ようやっとおとなしくなった獲物を前に、我慢を忘れたようにかぶりついた。腹の部分に喰いつき、肉食の動物らしく最初に内臓をすする。過酷な環境下ではこれが貴重なビタミン源になると、本能的にわかっているのだ。もちろん、オーガストはほんとうの肉食獣ではないので、トニーの腹を甘噛して、内臓の位置を確かめるように舐るだけだ。
それが意外とくすぐったくて、トニーは何度も声を漏らしそうになるのをこらえていた。うすい腹筋の線を、尖らせた舌で力強くなぞっていく様子は、ナイフで臓腑を切り分ける姿に似ていた。こんなに柔らかい舌では薄皮一枚切れないとわかっていても、人体の構造を熟知したオーガストにとっては、該当する臓腑がぼろぼろとこぼれてくる様子を思い描けるだろう。
彼が自分の残酷な仕事について話をするのを嫌っているとは分かっていても、トニーはその構図をなんとなく想像してしまった。現に、オーガストが脱いだスーツの中には、ちいさくて薄いナイフが仕込まれているのを知っている。前に脱がせようとして、ぎくりと身体をこわばらせてそれを隠そうとした彼の様子を思い出した。薄暗い仕事。彼は自分の任務のことをそう呼ぶ。死体を片付けるのは清掃班だが、仕留めるのは俺なんだ。と、眉をしかめて言いづらそうにしていたことを。あなたにはそういう話をしたくない、と言われたことを。オーガストはいま、言語を持たない動物となって、トニーに襲いかかる。やさしく、力強く。なにか言葉にならない感情を行為にのせて叫んでいるようだった。
彼が、まだ反応していないトニーの性器を咥え、咀嚼するように愛撫する。突然の性感帯に向けられた刺激に、「あっ」と声を上げてしまったが、すぐにぎゅっと唇を閉じて飲み込んだ。いま、自分はオーガストに屠られる死体なのだ。声を上げてはまずい。ちょっとしたロールプレイは、がぜん真剣味をおびてきてしまっていた。閉じた視界の向こうで繰り広げられる愛撫は、視覚を補おうとやっきになっている触覚のせいで、よけいに細かな刺激まで拾ってしまい、快感がぐるぐると下腹で渦巻いていた。
ほんとうは、死んだふりを続けるかどうかなど、もうどうでもよくて、思うさま声を出してしまいたくなったが、役に徹している間はいつもよりずっとセックスに対する期待が高まっていくような気がして、やめられなくなっていた。実際、獣に屠られるという妄想は、人間同士でする行為よりもスリルがあってぞくぞくとした気持ちよさがあった。トニーは、自分には被虐趣味があったのかと、知りたくなかった性癖を思って恥ずかしくなったが、オーガストに飲み込まれた性器は痛いほどに勃起していた。心を身体が裏切っている。とうとう声を上げないまま達したときは、瞼がひくひくと細かく痙攣し、脳は快感を反芻する始末だった。
──ぐるる。
オーガストの唸り声。細く目を開けて見てみると、彼は喉を晒してトニーの精液を飲み込んでいた。血をすする肉食獣みたいだ、と思った。血じゃなくて精液だけれど。彼は二、三度に分けてものを飲み込んだ後、トニーの頬に甘えてきた。人間みたいに手を使って愛撫するんじゃなくて、動物みたいにくんくんと鼻を押し付けて。かたちの整った高い鼻梁が髭をかき分け、「どうして動かないんだ」と遊びをねだるみたいに頬にすり寄る。ぺろりと髭を舐められ、唇を割られ、歯列までぺろぺろと舐められても、トニーは死んだふりを続けた。
どこまで我慢できるかの根比べになっているような気がした。次第にオーガストの行為は必死になる。「どうして動かないの」「置いて行かないで」「たのむから目を開けて」というように、顔じゅうをぺろぺろと舐め回された。自分の精液がついた舌で舐め回されるのはちょっと不快だったけれど、それでも頑なに目を閉じていると、とうとうオーガストが折れて人間の言葉を喋った。
「お願い、トニー……」
年下の、かわいい後輩の甘く切ない声には、さすがに負けた。「魔法のキス」とぽそり呟き、目を閉じたままオーガストの様子を伺う。すこし間があって(たぶんぽかんとしていたのだろう)、唇にふさふさとした髭が当たるのが分かった。そうして、トニーはうっすらと目を開けて、さもいま目を覚ましたかのようにぱしぱしとまばたきをしてみせて、ようやっと綺麗なヘイゼルの瞳を見せた。
それを見たオーガストは、それはそれは嬉しそうに笑ってみせた。大きな手のひらでトニーの顔を包み、「おかえりなさい」と言う。「お前が喰ったくせに」「食べてもいいと言ったじゃないですか」「食べたらなくなるんだ」「屁理屈」久しぶりの人語の応酬は新鮮な気持ちがした。顔じゅうにキスの嵐が降ってきて、人間の求愛行動というものを思った。こんなふうに、大きな手で捕まえられて、逃げられなくて、あたたかい唇がたくさん当たって気持ちがいい。素敵じゃないか、と思った。
しばらくキスの嵐を降らせていたオーガストは、その唇を首筋に下ろしていき、欲望の続きを昇華せんと身の猛りをトニーの太腿に押し付けてきた。右手をするりと滑らせてそれを握ると、もうだいぶ硬いそこは、まだ乾いていてあたたかかった。ジェルを取り出したオーガストは、性急にトニーの後孔を慣らし始める。もう何度も手順を踏んだ手つきはあざやかだった。彼の太くたくましい指がゆっくりと順に三本入る。中指、薬指と人差し指。
そういえば、動物は交尾をするときどうやって慣らすのだろう、とトニーは考えた。が、思えば女の膣が濡れるように、動物のメスも濡れるからジェルなんかいらないのだろうな、と結論が出た。ただ、自然界には同性のカップルも存在するらしいが、彼らはどうやって交尾をしているのだろう。もしかして、一生プラトニックで過ごすのだろうか。だとしたら気の毒だ。愛しい人と繋がれないなんて。そんなことを考えていたら、ずっ、と性器が挿入された。
「考え事とは、余裕ですね」
「んぅ、動物の交尾について考えてたんだ」
「獣姦の趣味が開花したとか?」
「まさか。オス同士の交尾はどうやってするんだろうなって」
オーガストは、これが答えですよ。と性器を押し進めてきた。ぐっと下腹部に感じる圧迫感がきつい。彼の性器は大きく、硬く、なじむまでわずかに痛みを伴う。だから、オーガストはたいてい、じっと耐えるように待つ。トニーはこの時間が好きだった。慣れて激しく動かれると、いつも訳が分からなくなって、目の前の胸にまとわりつくことしかできなくなってしまう。だから、これはまだ彼を感じる余裕がある貴重な瞬間だった。
オーガストがトニーの胸に額をこすりつけてまたマーキングする。噛む癖があるところといい、匂いをこすりつける動作といい、いちいち動物っぽくてかわいらしい。「でも確かに、動物のオス同士じゃあどうやってするんでしょうね」と上目遣いに聞いてくる。考えても分からなかったので、「さあ、でも、僕たちにはジェルがあってよかった」と答えると、彼は思いもよらなかったとでも言うように吹き出した。そうして、「では、ジェルの恩恵にあずかって」とうやうやしく、ときたま出る彼特有の芝居がかった口調で言ってのけると、律動をはじめた。
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情事が終わったのはもう午前二時を回った頃だった。とくべつ丁寧な手つきでなされた交わりでも、二時間とあればさすがに疲れる。トニーはくったりと四肢を横たえて毛布に包まりたかったが、後処理があったし、あたたかいシャワーも浴びたかったので裸足でバスルームへと向かった。オーガストものっそりと体を起こしてついてくる。図体の大きい男二人で入るには狭すぎる空間だが、ぴったりと寄り添ってお湯を浴びるのも、トニーにとっては好きな瞬間だった。情事の後の愉しみ。後処理のため、トニーが慣れない手つきで後孔へと指を伸ばすと、「今夜は俺が」とオーガストがその手をとる。向かい合ってシャワーの雨の下、ひたりと身体を密着すれば、すこしつめたくなっていた肌がこすれあって互いを温め合う。
とろり、とろりと足の間を流れる白濁。オーガストの手が遊んで、トニーの腰を抱くと、ダンスの要領で腰を揺らした。トニーもそれに合わせて彼の腰を掴む。滑りやすい浴槽の底に気をつけながらのダンスはぎこちなかったが、鼻歌まじりに踊るのは楽しかった。深夜のテンション。くすぐったかったり恥ずかしかったりしてすこし抵抗しながら、二人はくすくすと笑い合ってしばらく身体を揺らしていた。あたたかく、しゃらしゃらと降り注ぐシャワーが肌にぶつかり、跳ね返り、シャワーカーテンの向こうにまで飛んでしまう。幸せな瞬間。と、鼻歌が止み、オーガストが動きを止めてしまう。
「……俺はおそろしいですか」
唐突にオーガストが呟いた。夜の静けさに混じってしまいそうな、弱々しい声だった。彼の顔を覗き込むと、眉を寄せてうつむき加減の顔は渋く、さっきまでの楽しい空気は消え失せていた。
「突然どうしたんだ?」
「俺は、たまに、あなたに酷いことをしたくてたまらなくなる」
大きな図体をまるめるようにして、オーガストがトニーの胸に額をこすり付けてくる。普段は整えられた髪がぐしゃぐしゃと乱れて顔を隠していった。彼はまた言う。「俺はおそろしいですか」と。いわく「狩りに飢えた獣みたいに、獣性を押し止められないときがある」と言う。そうして、「トニー、あなたをズタズタに引き裂いて、中身を取り出して、その内臓にキスをしたくなる」のだと言う。
「これがつよすぎる愛情なのだとしたら、俺の愛ってのはなんて醜いんだろうと思う。あなたは優しくて、どこまで何をしても許されるのか試してみたくなってしまうんだ。俺の薄暗い仕事、あれのせいかもしれない。俺は拷問や殺しで勃起するような変態じゃあないのに、獣みたいにあなたにかぶりつく妄想だけは振り払えない。酷く執着してるんだ。あなたに。ぜんぶ欲しい。あなたのぜんぶが欲しくて、血も骨も残さず平らげたい。そんな妄想に取り憑かれているんです」
それは、衝撃的な告白だった。頭の中で考えているだけならばグレーゾーンの妄想だが、実際に口に出されて、いま、首筋に唇を寄せられている身からするとレッドランプがちかちかと光って警告が表示されるようだった。彼ならば、実行できるだけの能力も経験もあるのだし、一方トニーはというと、すでにオーガストの腕に捕らえられて身動きが取れない。だが、危険な状態だということは分かっていても、どこか、ぼんやりと夢の中の出来事のように思えた。
一言「おそろしくない」と口にだすのは簡単だが、どこか嘘っぽくなりそうだった。実際、トニーはオーガストをおそろしく思い始めていた。しかし、それは自分の身体を引き裂かれるかもしれないという恐怖よりも、自分を失って受け止める腕を持たなくなった彼が、ひとりになってしまうことを想像してのおそろしさだった。トニーはオーガストをひとりにしたくなかった。なので、「いいよ」と許容してしまった。
「いいよ、気の済むまで噛めばいい。きみの上着のポケットに入っているあの薄いナイフ、あれで僕を裂いたらいい。そうして、内臓にキスをして、肉も骨も残さず平らげて、僕のことを欲しいだけ食べたらいい。それで、僕がなくなってしまっても、ひとりきりにならないというならば、いいよ。こんな身体でよければ、食べるといい」
夜に酔った言い方だった。もしくは、愛情とか。言葉にするのは誰にでも出来るが、実際にそいう行為に及ばれてしまったら大変困る類の台詞。しかし、トニーには分かっていた。「ああ、トニー! トニー、それは酷い。俺にそんなことが出来ないって知ってるくせに!」とオーガストが泣き言を言う前からとっくに。なぜなら、彼はトニーのやさしさのぬるま湯にずぶずぶに浸かっていて、もう出ることは敵わないからだ。オーガストはサバンナの猛獣でも、ジャングルの猛獣でもない。ただの人間。獣の皮を被っておのれの矛盾とたたかう、ひとりぼっちの男。ぬくもりに飢えて、鮮血で身体をあたためようとする獣と違って、彼にはトニーの体温があるのだから。
「フッ、ふふ。ごめんな。きみをいじめるのが愉快で……」
「俺よりタチが悪いことを言いますね」
トニーの顔を見上げるオーガストの顔は、半分濡れた髪で隠れていて、片方だけの瞳がぎらぎらとしている。怒りを孕んでいるのかもしれない。それをどうどうとなだめて、トニーはオーガストの鼻に口づけた。子ども騙しみたいなやり方に、オーガストは不満そうにしていたが、胸のつかえが取れたせいだろう。長い間腕に閉じ込めていたトニーを離した。執着まで手放したかのように、さっぱりとした顔をしていた。
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バスルームから出たふたりは、裸のままベッドに倒れ込んだ。深夜特有の、ひんやりとした空気が身をかすめる。いそいそと毛布を引き上げたトニーの胸に、オーガストがまるくなってくっついてきた。甘えたい仔犬みたいだな、と思った。「俺をおそれていてくださいね」と言う台詞がちいさく聞こえた。寝る前のおまじないみたいにひっそりとした声だった。「もちろん」トニーはオーガストを胸に抱いて応えた。