「火、貸してもらえますか」
すい、と差し出される煙草。いつものように、乾いた葉が覗く先端に自分の吸っている火種を移す。ちりちりと燃えるほのおが、薄暗くなってきた夕方のベランダで唯一の明かりみたいに、二人の間にちいさくともった──。
ローリーと呼ばれる青年と暮らすようになって、もうずいぶん経つのに、僕は彼のことをよく知らなかった。もう一人の同居人(と言っても、彼を人と分類していいのか分かりかねる)は、ローリーのことをフランキーと呼んでいる。「どっちが本当の名前なんだい」と訊くと、彼はちょっと困った顔をして「どっちも」と短く答えた。「あなたの呼びやすい方でいいです」何処か遠くを見るような眼差しが詮索してほしくないと語っていたので、僕は彼をローリーと呼んでいる。もう一人の同居人こと、ジョーとは違う、僕だけの呼び名。舌に乗せるたび、ころころと転がっていく発音が気に入って、何度も口にしたくなってしまう。
──ローリー、おはよう。ローリー、いってきます。ローリー、ただいま。
最初のうち、彼はどうも所在なさげに曖昧な顔で返事をしていたけれど、最近はこの奇妙な同居生活にも慣れてきたせいか、すこしだけ表情が和らぐようになったと思う。おはようございます、いってらっしゃい、おかえりなさい。言葉遣いに距離感があるような気がして「タメ口でいいのに」と言ったら、ローリーは「この方が話しやすいので」とはにかんだ。ジョーには遠慮なく乱暴な言葉もぶつけるのに、僕には決して声を荒らげない。それが寂しいような。でも、呼び名と同じく僕だけにする言葉遣いなのだと思うと、ちょっと特別な感じがして、もう指摘していない。
慌ただしく働くビジネスパーソンの自分が、彼と顔を合わせることの出来る時間は限られていた。いつも何処かしらから現れるジョーが挟まるので、ほとんど二人きりで過ごす機会はない。それが、ちょっとだけもどかしかった。
ところで、普段は控えているけれど僕は喫煙者なので、たまに夕方のベランダでひとり煙草を吸うことがある。昨今の受動喫煙反対の勢力に押しやられて、職場で吸うのは肩身が狭いし、ジョーもローリーも煙草を吸っているところを見たことがないので、家のなかでは遠慮していた。そんなあるとき、誰も居ないと思って悠々と外の景色を眺めながら一服しているところに、ローリーが声をかけてきた。
「おれも一本もらっていいですか」
ちょっとびっくりした。意外、という感じ。「なに、君も吸うの?」野暮なことに、わざわざ訊き返してしまった。「たまに、ね」と気恥ずかしそうに眉を下げて、ローリーは僕のワイシャツのポケットから覗くソフトケースに手を伸ばし、一本だけ煙草を失敬してしまった。ぼうっとしていたら、彼は指に挟んだものをちいさく掲げて「火、貸してもらえますか」と言った。慌ててライターを探すも、何故か見つからない。焦れたのか呆れたのか、軽く肩を叩かれる。待って、と口に出そうとしたら、ローリーは咥えた煙草の先端を、僕の吸っているものの先端に近づけて、静かに一息吸った。ちり、と微かな音を立てて燃え移るちいさなほのお。
「ああ、久しぶりに吸うと、美味しい」
ふっと横を向いて吐き出された煙が風にたなびいた。夕日の残り香に照らされるブロンドの前髪。やわらかに輝く薄金色のひかりを、きれいだな、と思いながら見つめてしまう。ローリーは僕のぶしつけな視線に気づいているのかいないのか、ちっとも構わず紫煙をくゆらせ続けていた。しだいに暗くなっていく景色とは対照的に、ぽつりと灯った火に揺れる顔は、いつまでも白く浮かんでいて。僕は自分の吸っていた煙草を指に挟んだまま、ぜんぶ灰にしてしまうまで、惚けたようにローリーの横顔を眺めていた──。
それからというものの、ベランダで僕が一服していると、いつの間にかローリーが来て並ぶようになった。それなりの頻度で喫煙する僕に、彼は毎回のように付き合ってくれる。いつも手ぶらで現れては「一本もらってもいいですか」と拝借していくので、最近は彼が常套句を口にする前にソフトケースを差し出していた。火をつけるのにライターは使わなかった。煙草と同じように、ローリーは火種まで拝借していく。うつむき加減に顔を近づけて火を移し、今日も二人で紫煙を交わす。
「シガレットキスっていうんですよ」
ふと、ローリーが口にした言葉に不意打ちをくらって、思わず顔を上げた。「たしかに、キスそっくりの格好だ」はじめてベランダに来たときのように気恥ずかしそうな顔をして、彼は遠慮がちに続けた。「ほんとのキスもしたいって言ったら、困りますか」僕は煙草を取り落した。ローリーがそれを目で追いかけようとする。だめ、僕を見て。口で言う代わりに、おとがいに指を添えてとどめた。ローリーも煙草を落とした。酸素を失って消えかける煙草の火をよそに、僕たちは唇に燃えるような熱をともした。