クッキー、コーヒー、シガレット

「欲しいのか?」
 キッチンスペースで戸棚の前に立つジャッキーが言う。

 彼が他人に気を使うなんてめずらしい。よほど物欲しそうな目で見てしまっていたのだろう。自分では気づかなかったが、ジャッキーの手にある物を見つめるコブの目は、たしかにかなり物欲しそうだった。レトロな缶に入ったチョコチップクッキー。

「好きか」
「いや、懐かしい缶だなと思って」
 子どもの頃によく家に置いてあったやつだ。と言うと、裕福だったんだな、と返された。俺がガキの頃はこんな立派な缶入りの菓子なんか食えなかった、とも。どう返事をしたらいいか迷って、でもいまは食べられる。と応えたら、ジャッキーは「違いない」と笑った。

「甘いもの、食べるんだ」
「そうだな、たまに食べたくなる。とくに疲れたときなんか」
「でも砂糖は疲労回復に効くわけじゃない」
「なあ、気分を下げるようなこと言ってくれるなよ」

 缶から大きなクッキーを二枚取り出して、一枚寄越してくるのを受け取った。もう夕飯を終えてしばらく経つから空腹でもなんでもない。そんなときに食べる間食にしては、サイズが大きすぎると思った。けれど、ジャッキーは構わず口にしている。一口かじって、咥えて、ポットからマグにお湯を入れている。インスタントコーヒーの匂いが漂ってきた。

「お前も欲しいか?」
 口に物を咥えたまま喋るので不明瞭な言葉だったけれど、たぶんそう言っている。コブは首を振って、自分も一口かじってみた。ザク、と重たい食感のあとに甘い生地とチョコチップが口の中で混じり合い、味覚を甘味一色に塗り替えていく。
 二口目をかじりながらジャッキーの様子を見ると、彼はキッチンカウンターのスツールに座って間食を楽しんでいるようだった。ザクザクと小気味のいい音を立て、コーヒーの香りに、ほんのすこし煙草の残り香。そういえば、彼は喫煙者だったな、と思い出す。

 欲しいか、という問いを日常で聞かないので、彼に聞かれてすこしびっくりしてしまった。思わず受け取ってしまったけれど、ほんとうはクッキーなんて欲しくはなかった。三口目をかじって、ほんとうはあなたが欲しかったと言えたらどうなっていただろうかと考える。
 人は欲しい物を口に出来るときと出来ないときがある。これは、出来ないとき。コブには何かを欲しがる自分をつい制してしまう癖があった。けれど、そうだろう。恋人でもなんでもない男に、いきなり「あなたが欲しい」だなんて言ったらそれは淫乱というものだ。なんて自制心が働いてしまう。だから、代わりにチョコチップクッキーなんかかじっている。

 コブが黙々とクッキーを食べていると、目の前にすすすとマグが現れた。ジャッキーだ。いらないと言ったのに、彼は律儀にコーヒーを入れてくれたらしい。

「ありがとう」
「いいや、おれの勝手だ」

 こちらを見もせずに言う彼に甘えて、ありがたくコーヒーをいただく。じつはいまさらクッキーが甘すぎると感じてきたので、何か苦いものが欲しかったのだ。
 隣を見ると、ジャッキーはもう食べ終えて食後の一服をするところだった。目が合ったら、彼は咥えていた煙草を手に移して「気にするか」と聞いてきた。もしかして、彼は意外と気遣いなのかもしれないと思いながら「気にしない。吸って、どうぞ」と返した。すかさず手にある煙草を咥えなおしてライターを取り出す。ぼっ、と音を立てて点いた火は、なんだか目に熱かった。

 ジャッキーの喫煙する姿は、様になっていて見とれてしまう。もう深夜のせいかオールバックの髪もすこし乱れて、黒い糸のような前髪が額にかかっている。それがめずらしくて、セクシーで。コブはごくりと喉を鳴らしてしまう。自分がこんなに欲しがりだなんて思いもしなかった。彼が欲しい。いますぐに。

 それに気づいたのか、そうでないのか。
 ジャッキーがいつの間にかこちらを向いてにやにやしている。「欲しいのか?」と、さっきよりずいぶん意地の悪い口調で聞いてくるハスキーな声。

「欲しい」
 コブはためらわなかった。
 正直な気持ちでまっすぐに答えたら、ジャッキーはすこし驚いたような顔をして紫煙を吐いた。

「口、開けろ」
 すこし高圧的な物言いにもかかわらず、コブは言われた通りに口を開いた。すい、と煙草を咥えさせられる。「吸え」と、また言われた通りに一口だけ煙を吸い込む。唇に触れた彼の指まで味わうように。ほうっとゆっくり紫煙を吐き出すと、唇から離れた煙草の代わりにジャッキーの唇が降りてきた。

「ん……」
 けとけとする煙草味のキスに、ほんのすこしチョコチップクッキーの甘さとコーヒーの苦さ。それが分かるくらいじっくりと舌を絡めて味わうひととき。ざらざらする舌の表面をこすり合わせて、上顎をくすぐる彼の舌先。すりすりされると腰が浮つくような心地になってしまい、コブは思わずスツールからずり落ちそうになってしまった。

「なんだ、ウブなんだな」
 ジャッキーの可笑しそうにふるえる声。笑いをこらえているときみたいな。「ひどい」と抗議すると、「俺を欲しがるってのはこういうことだぜ」と返された。

「物欲しそうな目で俺を見るなら、最後まで付き合ってもらわなきゃ困る。なんせ、煽ったのはそっちなんだからな。さて、どうする?」

 キッチンスペースの薄明るいひかりが、彼の目に反射してぎらぎらと輝く。それは欲情した男の目だった。そして、それはコブも同じだったので、今度は自制心なんて捨てて、みずからの欲望に抗うことはしなかった。