ガゼル病

「最近、僕たちが何て呼ばれているか、レオは知ってるかい?」

 ブラッドが尋ねたとき、レオは端末で明日の天気をチェックしていた。ふむ、降水確率六十パーセント。どうせ二人とも出掛けないから関係ないけれど、日々深刻化する気候変動に憂いを抱えるレオは、よく天気だとか気温だとか絶滅危惧種のレッドリストだとかを眺めている。それも大事なことだけれど、せっかく時間を縫って会っているのだから、僕の顔も見て欲しい。

 何度か逢瀬を重ねて分かったことだけれど、こういうときにレオの邪魔をすると「うざい」と言われて邪険に扱われてしまう。なので、どんなに無視されようが辛抱強く待つしかない。おじさんは年下の子に「うざい」と言われると、すごく傷つく生き物なのだ。

「なに、さっき何て言ったの」

 真剣に見つめていた画面からぱっと顔を上げたレオは、自分が恋人の言葉を無視していたことなどなかったかのように、小首を傾げて訊いてくる。前髪が一房落ちて、すこし幼く見えた。もう何十年とショウビズの荒野を駆け抜けてきたわりに、彼にはすれたところがなくて、何処かあどけない。いまだに青い瞳を向けられるたびときめいてしまう自分と違って、レオにはいつだって余裕があるように見えた。

「僕たちの呼び名。何て呼ばれてると思う?」
「知らない。何て呼ばれてるの」
「孤高のガゼルたち、だって」

 何それ。ずいぶん辛気くさい表現だね。と、面白くもなさそうに答えたレオは、端末をローテーブルに置いて、隣に座るブラッドの肩にもたれかかった。気まぐれな猫のように肢体を伸ばしてから、ずるずると身体をずり下げてソファの座面に仰向けになる。覗き込んでみると、眠そうな顔をしていた。

「疲れてるみたいだね」
「ん、ごめん。ちょっと寝不足」

 癖のあるダークブロンドの髪に指を差し込んで、頭皮をやさしくマッサージするように撫ぜる。レオは気持ちよさそうに目を細め、ブラッドの頬に手を伸ばした。「あなたは、歳のわりに元気そうだよね」なんて言って、意地悪そうに笑う。まあ、世間のイメージもあるし、ある意味職業病みたいなものかもね。と添えて、ブラッドの、手入れをしていないせいで短く生えた髭を弄んだ。くるくるとよく動く指がくすぐったくて、まるい爪の先を軽く噛む。彼は気にしたふうでもなく、動物的な戯れを甘んじて受け入れてくれた。

──これが許される程度には、愛されているんだろうな。

 僕たちは、とくにお互いの気持ちを伝え合ったわけでもなく、ただ何となく呼吸がしやすいから一緒にいる。いまのところ。

 マリファナや煙草の煙から離れてずいぶん経つのに、僕の周りには人の視線という名の薄煙が立ち込めていた。何処に行ってもついて回るそれは、ときおり僕をいい気分にさせたり、うんざりさせたりして振り回すので、疲弊してしまう。けれど、ほんとうにプライベートな場所で愛おしい人と過ごす間は、いっときその薄煙から逃れられる。とくにいまは、レオという憩いの存在が出来たことで、ずいぶんとラクになった。これを実際口にすると、顔をしかめて「ポエマー」と言われるので、胸の内だけにとどめている。

「トムソンガゼルは、群れで行動する動物なんだ」

 ふと、レオが思い出したように話し始めた。

「十数頭から数百頭、季節によっては数千頭の集団で広大な地を駆ける。写真で見たことがあるんだけど、すごい光景だよ。黒い縞のある茶色い胴体が、草原を埋め尽くすほどいっぱいに並んで移動するんだ。彼らは、一匹では生きていけないと分かっている。だから、群れをつくるんだ」

 饒舌に語る瞳がきらめいて、晴天のサバンナのような青と目が合う。

「ブラッドは、ライオンみたいな頭してるのに、自分のことガゼルだって思うの」

 口から指を引き抜かれ、ぱさついたブロンドを一房すくわれる。じりじりと擦り合わせて感触を愉しむレオは、面白いものを発見したという表情でにやりと口角を上げた。

「孤高のガゼルなんて幻だよ。だって僕ら、もう群れなんだから」

 その言葉に驚いて目を瞬かせると、レオは悪戯が成功した子どもの顔をしてブラッドの鼻をつまんだ。「面白くないことにいちいち構ってないで、今日はうんとゆっくりしようよ。せっかく二人っきりなんだから」と言う声は柔らかく、耳に心地いい。

「君には敵わないなあ」

 ブラッドは目尻を下げ、喜んでレオの言葉に降伏した。群れ。そうか、僕と君はもう、群れなんだ。その台詞におおきな安堵を感じて、顔の上で遊んでいる手を取り、手首に口づける。あわよくば、君とつがいになれたらいいのに。それも、口にすると「キザったらしい」と言われるので、言葉を飲み込む代わりに顔を近づけ、逆さまの唇にそっと祝福のしるしを落とした。