跪いて、甘やかして

「先輩、靴紐が解けてますよ」
 そう言って、オーガストはトニーの足元に跪いた。どきりとする。解けた靴紐を結んでもらっているだけなのに、一瞬、“ニール”と命令してしまったのかと思った。ドムの本能がうずく。尽くされて気持ちよい感覚。オーガストを見下ろすと、彼もサブの本能で、尽くすことに心地よさを覚えているのか、すこしふわりとした笑みを見せてくれた。

「グッド……いや、ありがとう」
「いいえ、これくらいのこと」

 思わず“グッドボーイ”とアフターケアのときに口にするような労いの言葉を掛けそうになって、ここが局だと思い出し、普通の言葉を掛ける。個人の作業部屋があってよかった。トニーとオーガストは、自分たちの性的指向をおおっぴらにするような行為は、公の場でしないと決めていた。それなのに、今日はやけにオーガストが甘えたな様子でひっついてくる。

「今日はサブの気分なのか?」
「ええ。あなたにとっても甘えたくてしょうがない」

 この世界には、二つの性がある。
 一つは男と女。
 もう一つは、ドムとサブ。

 これは、ダイナミクスと呼ばれる力関係を含む性別のことだ。わかりやすく言ってしまうと、ドムとは支配したい性。サブは支配されたい性のこと。ドムが命令することに、サブは喜びを見出し、“ニール(跪け)”や“カム(来い)”などの言葉に従ってしまう。もちろん、これはお互いに信頼関係が出来上がってから行うことだ。信頼のもとでなされる行為は、ドムもサブも精神的に安定させてくれる。合意のもとでない行為は違法で、管理局へと通報されてしまう。

 ドムとサブの関係は、サディストとマゾヒストの関係にも例えられることがあるが、そこまで乱暴にくくってはいけない。たんに相手を甘やかして愛したいだけのドムもいれば、ドムに甘えて愛されたいだけのサブもいる。人の数だけ、その愛のかたちは様々だ。
 トニーとオーガストは、そのなかでもスイッチという、ドムとサブの入り混じった性を持っていた。気分によって、相手を甘やかしたり、甘えたり。支配もころころと入れ替わり、トニーが主導権を握ることもあれば、オーガストが握ることもある。けれど、二人はお互いを支配したり独占したりというよりは、甘やかしたり尽くしたり、守ってあげたいと思う方向の穏やかなカップルだった。

「この仕事がすんだら帰れる。それまでいい子で待てが出来るか?」
「出来るか? じゃなくて命令してください」

 オーガストはすこし頬を紅潮させて、ふるりと体をふるわせた。ここ数日、出張やら任務やらで、全然トニーと過ごせなかった。そのせいか、彼に命令されると思うだけで、サブスペースという恍惚状態になりそうだった。

「オーガスト、“ステイ”」
「くぅ……はい。じゃあ、おれは帰宅の準備をしてきますね」
「帰ったらいっぱい甘やかしてやるから、いまはそのだらしない顔を引き締めておけよ」
「はい!」

 上機嫌で部屋を出ていったオーガストを見送ってから、トニーは手元の書類に目をやる。出張や任務で長いこと会えなかったのはお互い様だ。トニーも、オーガストを甘やかしたくてしょうがなかった。ここが仕事場でなかったら、跪かせた彼の頭を思いっきりわしわしと撫でていただろう。大型犬にするような愛で方が、トニーは好きだった。今夜は二人でたっぷりと甘い夜を過ごしたい。ついつい作業のスピードを早めながら、トニーは書類を仕上げに掛かった。

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 帰宅した二人は、コートを脱がし合いながら啄むようなキスをした。ちゃり、と車の鍵を壁に掛けがてら、トニーは、そこに掛けてある首輪を手に取ってオーガストの首につける。首輪は、ドムがサブに贈る関係成立のあかしだった。オーガストはこれだけで射精できそうなほどの歓喜に身をふるわせた。何日ぶりの首輪だろう。トニーに甘やかしてもらえる、と思うと、彼はもうサブスペースに入り込んでしまいそうだった。
 二人が帰宅してどちらかに首輪をつけるのは、無事に家についたからプレイを開始してもよいという合図のようなもの。これで思いっきりドムとサブの関係になれる。

「オーガスト、“ニール”」
 まずは基本的な命令から。オーガストは、言われたとおりトニーの足元にぺたりと座り込み、犬が主人の命令を待つときのような視線でもって次の言葉を待った。

「帰宅までよく我慢できたな。“グッドボーイ”」
 そう言って、トニーはオーガストの頭をわしゃわしゃと撫ぜまくる。オーガストは喜び、トニーの脚にすがりついてスラックスに鼻を押しつけた。

「ああ、あなたの匂いがする……」
「煙草臭いだろう?」
「それだけじゃないんです。もっとトニー自体の匂いがするというか……例えるのがむずかしいな。とにかく、あなたの匂いがして安心する……」

 真っ直ぐ通った鼻筋をすんすんと押しつけられても、トニーはされるがままにしておいた。オーガストは、こうやって匂いを嗅いだり、甘噛みしたりする犬のような甘え方が好きらしいので。
 けれど、その鼻がスラックスの前立てを探ろうとしたあたりで、トニーは「“ストップ”」を掛けた。

「オーガスト、それ以上は寝室での約束だ」
「あああ、ごめんなさい。トニー、でももう我慢できなくて……」
「いい子だから、もう少し我慢してごらん。“ステイ”」

 待てを命令した途端、オーガストはぶるりと肩をふるわせて、すとんと床に伏せった。犬が待てを言われたときのポーズに似ている。トニーは、素直に言うことを聞いた年下の後輩を可愛らしく思い、しゃがみ込んで彼の顎髭をひと撫でしてから言った。

「そう、いい子だ。寝室へ行こうか」
「はい!」

 トニーが、寝室のヒーターをつけて、部屋を暖める。その間、オーガストはベッドのすぐそばでぺたりと跪いて待っていた。うずうずとして、次の命令をいまかいまかと待っている様子だった。その待ちきれない様子が可愛いな。とトニーは思う。

「待てがきちんと出来たな。“グッドボーイ”。次は“ストリップ”だ」
「はい」

 オーガストが立ち上がって、トニーのシャツを脱がせに掛かる。普通、“ストリップ”という命令は自身の服を脱がせるのに使う命令だが、トニーとオーガストの場合は、相手の服を脱がせて自分も脱ぐときに使う。もどかしそうにシャツのボタンをぷちぷちと外され、トニーの肌が外気に晒される。まだひんやりとした室内の空気のせいで、乳首がぴんと立ってしまっていた。オーガストはそれを舐めてみたくてしょうがなかったが、いまは命令に従うことのほうが快感だった。トニーの服をすべて脱がせ、自分も性急に脱いでしまう。

「さあ、はやく躾けてください」
 ギリシャ彫刻のような見事な肉体があらわになる。トニーはオーガストの身体が織りなす筋肉の陰影が好きだった。芸術を愛するものとしては、このまま“ステイ”と命令してデッサンでもしたい気もする。だが、オーガストはもう限界そうだった。目をギラギラとさせて、飢えている。トニーも、久しぶりに目の当たりにする芸術的な肉体の前では、鑑賞するより堪能したい気持ちが勝っていた。

「オーガスト、“ニール”、“プレゼント”」
 トニーの言葉にオーガストが反応する。ベッドに足を組んで座ったトニーの前に、オーガストは正座をくずしたようにぺたりと座り込んでから、局部がよく見えるよう腰を突き出した。そこはすでに勃起していて、先端には、わずかに先走りが滲んでいた。よく我慢している。芸術的な彼の肉体は、こんなところまで芸術的なのか、と思い、トニーはほうっとため息を吐いた。

「僕がいいというまで“ステイ”だ、いいかい?」
「はい、トニー」

 トニーは組んでいた脚を戻し、すこしかがんでオーガストの性器に触れた。ぬるり、先端から先走りを伸ばし、亀頭をくちゅりと擦る。「ああっ」と声が上がり、立ち上がったペニスがどくりとふるえる。熱くてかたい、オーガストの性器。これをいま自分が自由に出来るのだと思うと、ぞくぞくとしたものがトニーの背中を駆け上がる。

「自分でしてみて、オーガスト」
 手を退けて、ベッドに座り直したトニーは、慈愛のこもった目でオーガストを見下ろしながら、酷いことを言う。そんな、あなたに触れてもらえると思っていたのに! という目をしたオーガストを無視してもう一度、「自分で、してみて」と。仕方なく、さっきのひと触れを思い出しながら、オーガストは自身を慰めた。

 なるべく局部がトニーに見えるよう、腰を突き出しながらの自慰。左手を後ろ手にして身体を支え、右手でペニスを扱く。輪っかにした指を上下させながら、トニーの様子も伺う。と、彼は自分の身体を抱くようにしながら、とろんとした目でこちらを見下ろしていた。トニーも我慢しているのだ。いちばん気持ちよくなれる瞬間のために、いまは互いに我慢する場面なのだと思うと、オーガストは気が楽になって自慰に集中出来た。

 もうそろそろ出そうだ、というところで、命令を思い出した。彼は“ステイ”と言った。トニーがいいと言うまでは射精も我慢しなくてはならない。

「と、トニー、出そう、もういい?」
「うん、ちょっと待って」

 トニーは、はっと思い出したようにベッドに寝転がると、「おいで」とオーガストもベッドに上がらせる。トニーの裸体を目の前にして、くらくらとしそうなオーガストは、それでも根本をぎゅうと握りしめながらトニーに覆いかぶさるようにしてベッドへと乗り上げた。

「いいよ。ここに、出して」
 そろりと開かれた両足のはざま。晒されたのは慎ましやかな秘部だった。普段ぴったりと閉じているはずのそこは、外気と視線に晒され、ひくりひくりとうずいていた。オーガストは頭に血が上った。戒めていた指を外すと、一気に射精へと自身を導いた。びちゃり、ひといきに出された精液が、トニーの後孔に掛かる。と、トニーはまるで自分もいったかのように身体をびくんとしならせた。

「はは、あつい……」
「あっ、あ、トニー、させて、お願い」
「ん、よく我慢したね。“グッドボーイ”。でも、もうすこし“ステイ”して」

 さらに我慢を強いられたオーガストは、泣きそうな顔でその場に伏せった。トニーの秘部が目の前で自分の精液にまみれているというのに。美味しそう。食べたい。おれのもの。はやく突っ込みたい。思う存分貪りたい。ぐるぐると欲を渦巻かせながら、それでも我慢してひたすら待つ。
 トニーは、そんなオーガストの健気さに胸の奥をきゅんとさせながら、精液で濡れた後孔に指をやった。

「慣らすのなんておれがするのに!」というオーガストを、「だめ。今日は僕がしたいの」と牽制する。いつもは、オーガストにフェラチオをさせて、そのまま流れで後ろを慣らさせて、そうして抱かれるのが主流なのだが、今夜はとことん彼を我慢させたい。それは、トニーに芽生えたちょっとした加虐心だったかもしれない。久しぶりにする分、濃厚に愉しみたい、という。
 くちゅ、ちゅぷ、と指が後孔を慣らしていく。いいところには触れないように。それはオーガストとの愉しみだ。もどかしいほどの時間を掛けてから、トニーが中指と薬指でくぱあ、と後孔を広げる。そこはとろとろと蜜を垂らしてぽってりと熟れていた。

「ん、オーガスト、“カム”。早くおいで」
 ついに許可が下りた、とばかりにオーガストは飛びついた。はっ、はっ、と獣のような息を切らして、いきり勃ったペニスを後孔に挿入する。ずるりと入り込んだそこは、夢のように心地よかった。トニーの両脚を持ち上げて、ずっ、ずっ、とゆっくり律動する。いまにも犬のようにへこへこと腰を振ってしまいそうだったが、まだ奥まで慣らさないとトニーがつらいだろうと思ってのことだ。

 トニーはそんなオーガストの気遣いに「いい子だ」と頭を撫ぜる。ゆっくりと前立腺を刺激され、ぬるま湯に浸かったような心地よさがじわじわとせり上がってきていた。「トニー、トニー!」だんだんと早くなる腰つきが、突然止まる。じんわり、奥の方で何かが弾ける感覚。オーガストがまた射精したのだ。早かった。彼はもうサブスペースに入り込んでいて、快感のねじがゆるんでいた。けれど、すぐになかのものは硬さを取り戻して、また腰を振るう。じゅぶ、じゅぶ、となかで精液がかき回され、いやらしい水音が室内に響き渡った。

「あっ、ああ、オーガスト、」
「とにー、気持ちいい? 気持ちいい?」
「うん、きもちいいっ、ぅ」

 我慢に我慢を重ねた成果なのか、いつもよりずっとお互いを感じる。擦り合うところから溶けてしまうような。オーガストは思わずトニーに口づけた。呼吸を奪うようなキスだった。それでも、互いに互いの息を交換しながら、はくはくと深く続く口づけをやめられない。だんだんと息が出来なくなって、ぼうっとしてきた頃に、それはやってきた。

「あ、ぁ、何、へん、奥、くる……!」
「とにー?」

 トニーがオーガストの胸を叩いて口づけを止めさせる。と、同時に彼は足の指をきゅううと丸めて、勢いのない精をたらりとこぼし、びくんびくんと肢体をしならせた。女の快感、いわゆる、メスイキをしてしまったのだ。

「はあぁ、あうぅ……」
「ああ、とにー、きれいだ……」

 背をのけぞらせて快感に喘ぐトニーはうつくしかった。主張するように目の前に差し出された乳房を、オーガストは味見でもするかのようにぺろりと舐めた。甘い気がするのは、気の所為だろうか。そのまま、ぴんと立った胸の頂きをかぷりと甘噛みする。びく、とトニーが反応するのに気をよくして、もっともっとと甘えて乳をねだる。ちゅう、ちゅう、と吸いついていると、トニーのなかもきゅう、と締まる。ときどき、ぴゅく、と精液を漏らす彼のペニスで、甘くいき続けているのがわかった。

「くふぅ……はあ、はあ、だめ、……お、がすと……」
 だめ、というわりに、行為を止めさせる命令は発しない。これはほんとうのだめ、ではないのだ。と、オーガストはまた好きにトニーの身体を堪能し始めた。腰を揺すってなかが締まるのを愉しむ。「ああ、だめぇ、いく、いくぅ……!」と、トニーがまたいく。うごめくなかにしゃぶられて、オーガストのものも限界だった。三度目の射精は、こっくりと長く、腰骨をぴったりと合わせるように密着していたせいで、トニーの奥のおくまで注ぎ込まれた。オーガストは、ふわふわとした多幸感に満たされ、ひとしずくの涙を流した。

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 事が終わっても、トニーの快感は尾を引くように続いていた。身体をすこし動かしただけでも、尾てい骨の奥からひくりと何かが上ってくるようだ。こんなに我を忘れて抱かれたのは久しぶりだった。なかにはまだオーガストのものがおさまったままだった。彼はサブスペースに入り込んでいて、恍惚としたままトニーの胸にもたれかかっていた。

「オーガスト、帰っておいで、“グッドボーイ”」
 トニーが呼びかけながら髪を梳いていると、ぴくん、と犬であったら耳を立てるかのように、オーガストが頭を揺らす。ゆっくりと顔を上げた彼は、まだぼんやりとしていた。

「とにー、とにー、すごく、気持ちよかったです……」
 オーガストは、ろれつの回らない口でトニーの名前を呼びながら、その首筋に、まるでマーキングするかのように鼻をすりすりと擦りつけた。たっぷりと甘やかされて、子どもがえりしたみたいな様子だった。

「んう、なか、またおっきくなってる……」
「あ、あ、ごめんなさい。とにー、でも、まだ足りない……」

 ふわふわと、また多幸感がやってきていた。まだ足りない。もっとこの人を味わいたい。もっとぐちゃぐちゃにして、どろどろにして、それで、二人で溶け合ってしまいたい──。

「オーガスト、“ストップ”。今日はもうだめだ」
「そんなあ、」
「いい子だから、帰っておいで……」

 今夜はとても素敵な夜だったが、これ以上の行為は際限なく続いてしまいそうで、オーガストがトリップ状態から戻ってこれなくなってきそうで、やめておくことにした。サブのいきすぎをコントロールするのも、ドムの役目だった。
 オーガストは、髪を優しく撫ぜられているうちに、だんだんと恍惚状態から醒めていった。ずるりとなかからペニスを抜き、トニーの腹の上で扱いて射精する。「はあ」と息を吐き、夢から覚めたかのように顔を振って呼吸を整える。

「すごく甘やかされました……」
「よかった。おかえり、オーガスト」

 トニーが微笑んで迎えてくれる。わしわしと頭を混ぜっ返され、完全に恍惚状態から抜けきった。とてもしあわせな時間だった。会えなかったときを埋めるのにじゅうぶんな、濃厚なプレイ。いつも自分はやりすぎてしまうが、トニーが止めてくれるので、安心して身を任せられる。オーガストは、後処理をするためにベッドを立った。

「待って」
 と、トニーに腕を取られて立ち止まる。何かと思ってみれば、彼の目が訴えていた。今度は、自分に命令して、自分を甘やかして、と。

「いいんですか?」
「まだ、足りないんだろう?」

 スイッチ特有の、ドムとサブが入れ替わる瞬間。オーガストは、はめていた首輪を取り、トニーにつけ直した。ふるり、ふるえる身体に、むくむくと支配欲が高まってくる。

「わるい子ですね」
「叱って」

 オーガストはトニーの顎をくいっとすくい上げて口づけた。

「それじゃあ、まずは、“ニール”」
 トニーがベッドから下りてぺたりと跪く。下腹部に溜まった精液が垂れて、床を汚した。どうやって彼を甘やかしてあげよう。オーガストは跪いたトニーの前に座って命令を考えた。

 まだまだ夜は、はじまったばかり。