01.
「君は綺麗になったね」とソロが言うので、トニーは何のことかと眉をひそめてしまった。自分には似つかわしくない言葉だと思ったのだ。
けれど、続けて「若い子に抱かれているからかな」などと言うので、ああ、彼なりの嫉妬なのだなと思った。振り返ってみると、ソロはゴムとティッシュを丸めてダストボックスに投げ入れるところだった。
「妬いてるんですか」
「まあね。若さは、いまの俺にないものだし」
そういう彼は、十も年上とは思えないほど若々しい造形をしている。艶々とした黒い髪に、なかで泳げそうなほど青い瞳。彫りの深い整った顔と、鍛え上げられた体躯はギリシャ彫刻のようだ。
対して、トニーは上背はあるが痩せ型で、仕事にかまけて無精髭を生やしたままの相貌は熊のようだと言われるし、ぼさぼさの髪に隠れた鳶色の瞳は、寝不足ですこしくすんでいた。
それなのに、ソロはトニーのことを美しいだの綺麗だの言う。「美術品にうるさい俺が言うんだから間違いない」とは、アート系専門の元・大泥棒の言葉。それが何だか説得力があって「物好きも居るものなのだなあ」と思ってしまった。
「でもまあ、いいことだよ。君の美しさは磨かれるべきだ」
若い子に抱かれて磨かれる美しさだなんて、女たらしの彼らしい物言いだ。トニーは呆れてしまった。
「それなら、あなたはもっと美しくなりましたね」
暗に、自分の居ないところで抱いた女性の数をあてこすってみたのだが、何故か彼は嬉しそうに「アイ・ノウ」と答えた。さすが生粋の浮気者は違う。
「その子、大事にしなさい」
嬉しそうな表情のまま、ソロが言う。降り注ぐ陽光のような眼差し。それは、娘を見守る父親のようでもあった。「その子」が世間で言うところの間男のたぐいであっても、ソロとトニーにとっては違った。このへんのことについて説明するのはおそろしくやっかいである。
「それにしても、どうして分かったんです」
「噛み跡。腰の後ろにうっすら噛み跡が残ってるよ」
こんなに強く噛むなんて、独占欲の強い子なんだろうね。ソロの言う通り、その子はとくべつ甘えたで、トニーを独り占めしたがるかわいい後輩だった。
「オーガスト・ウォーカーと言うんですよ」
「へえ、夏生まれみたいな名前だね」
ソロは器用に片眉だけ上げてみせてから、ベッドを出た。
「それじゃあ、その子によろしく」
いつの間にか着替えてしまったソロを、シーツに包まったまま見送る。最後に短い口づけを交わして、彼はまた任務に旅立った。「彼にたくさん抱かれて、次に会うときまでにもっと綺麗になっておいで」などと残して。
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「で、あの男がそう言ったから来たんですか」
「まさか。僕が来たくて来たんだ」
酒の肴に昨夜のやりとりを話したら、案の定、オーガストは機嫌が悪くなったような顔をしてしまった。秀麗な顔立ちのせいで、何とも言えない凄みがあるが、トニーにとってはご機嫌斜めの子どもと一緒だった。
「ほんとうかな。あなたはあの男が好きだから」
ウイスキーを追加で注いだ彼は、まだお腹が空いているのか、冷蔵庫に何かないかと席を立った。トニーは、舐めるようにグラスの中身を味わってから、こんな話をしてしまうなんて、自分は酔っているのかもしれない、と思った。
「チーズ、いりますか?」
「僕はもういいよ」
キッチンを見ると、明日の朝ごはんにと買ってきたはずのバゲットを切っている。若い子はよく食べるなあ、と思いながら、トニーは空になったグラスをオーガストのものとこっそり取り替えた。
けれど、帰ってきた彼にすぐ見つかってしまう。
「あっ俺のグラス!」
「ふふふ、放っておくほうがわるい」
しばし、グラスを取り合う攻防を交わし、見事に勝利したのはトニーだった。といっても、オーガストはトニーに甘いので、わざと勝たせてあげたのだが。
「そんなに飲むと勃ちませんよ」
「いいんだ。君のが役に立てば」
「あっ、またそういうことを言って……」
まったく、あの男に悪いところばっかり似てくるんだから。という彼を無視して、トニーはグラスの中身をするすると喉に押し込んでいく。この後に待っていることを思うと、酔ってでもいないと耐えきれないと思ってのことだ。
年甲斐もなく年下の子を恋人に持って何が困るかと言うと、性欲の違いだった。
オーガストはよく食べるその食欲と同じくらい、性欲もすごかった。会って必ずしもセックスするわけではないソロと違って、彼は毎回トニーを抱きたがった。トニーも彼に応えたくて、つい抱かれてしまうのだが、そのありあまる欲についていくのは大変なのだ。
そんなことを知らないオーガストは、チーズを乗せたバゲットをわしわしと食べている。手土産のピザをほとんど一人で食べたばかりだというのに、ほんとうに、若い子は欲に上限がない。
「たくさん抱かれて、ね」
ソロの言った台詞を思い出してしまった。そんな心配をしなくても、きっとオーガストには今夜もたくさん抱かれてしまうだろう。
「何か言いましたか?」
「べつに」
空になったグラスを置いて、トニーはオーガストに近寄った。「髭にパンくずがついてる」といって軽く口づけると、彼は面白いほど目を丸くして赤くなった。こういうところがうぶでかわいいのだ。
「シャワー、浴びてくるよ」
あんまり遅いと寝るからな。と言い残していくと、オーガストはバゲットをウイスキーで流し込んで慌ててついて来た。
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ソロとトニーの間にオーガストが入り込んできたのは、まだ三ヶ月前ほどになる。
ソロの言うところの「若い子」ことオーガスト・ウォーカーとは仕事で知り合った。CIAのハンマーとあだ名される荒っぽい仕事を専門に請け負う彼は、現場に出るために多くの偽造パスポートや身分証が必要だった。それで、信頼して仕事を任せられる技術者としてトニーが選ばれたのだ。
最初はお互い書類上の名前でしか知らなかったが、やり取りのなかで顔を合わせることが出てきて、一緒にランチをとる仲になり、飲みに誘われるようになり、そうしてあるとき、告白された。「トニー先輩、あなたのことを愛しているんです」と。「あなたの、精密な仕事をするときの顔が綺麗で」とは彼の言い訳。
それがあまりにもまっすぐな物言いで、真剣で、新鮮で、かわいらしくて。ほだされてしまった。トニーはオーガストの唇を拒めなかったし、そうして、その先をもとめる若い衝動に流されるように抱かれてしまったのだ。
それを知ったソロは、怒らなかった。むしろ「じゃあ今度紹介しておくれよ」と言って笑った。たしかに、自分たちは世間で言うところの恋人同士という関係ではなかったが、長年付き合っているのだから嫉妬くらいはしてくれると思っていた。それが浅はかな考えであることは分かっていたが、トニーはソロが何を考えているのか分からなくて泣いた。
「ごめんね、君を縛ってあげられなくて」
だから、そのぶん彼にたくさん束縛してもらいなさい。と言ってソロは慰めた。別れの言葉かと思った。けれど、同時に「君を手放せなくてごめんね」とも言われた。ソロは、ソロなりにトニーを愛していた。
「君がその子に惹かれたのなら、その気持ちを大事にしなさい」
「勝手なひと。ばか。別れてやる」
トニーがソロの胸を叩いて言っても、彼は涼しい顔をしたままだった。「君を手放せなくて、ほんとうにごめんね」とソロはもう一度言った。その手はトニーをぎゅっと抱いて離してくれなかった。
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「何か考え事?」
情事の最中に意識が途切れたのを敏感に嗅ぎ取られて、トニーはどきっとしてしまった。肌と肌が密着しているせいで、その動揺が伝わったのだろう。オーガストはまた機嫌の悪そうな顔になって、「さすがに俺でも傷つきますよ」とこぼした。
「あの男のことでしょう」
「君のことだよ」
「嘘つき」
そう言ってオーガストは律動を再開させた。後ろから、さっきよりも深いところをえぐろうとする動き。彼の目はぎらぎらとしていた。それが嫉妬なのか、怒りなのか分からなかったが、燃えるように熱い感情だということは分かった。叩きつけられるものが、ひと回り怒張したような気がした。
「噛んでもいいでしょう」
オーガストは、よくトニーの体に噛み跡を残した。噛むのが好きらしい。いつもそれを許しながら、動物的なマーキングの仕方をする子だなあと思った。まるでソロへの牽制だ。
昨日、ソロが言っていた腰骨の後ろのあたり。まだ内出血の跡が残っているあたりを、オーガストはもう一度噛んだ。ぎち、と肉が歯に挟まれて痛みを感じる。けれど、不満は言わない。よっぽど痛くて耐えられないときは言うが、ようは噛んで吸って赤い跡を残したいだけなのだ。所有印みたいに。そんなことでトニーを手に入れたつもりになれる彼がかわいらしかった。
「ほんとうは、あなたの頭の中に入り込んで、あの男を締め上げてやりたい」
一通り噛んで気がすんだのか、オーガストはトニーの体から唇を離す。その口から次に飛び出たのは、CIAのハンマーとあだ名されるだけのことはある、力強く乱暴な物言いだった。
「あなたを不安にさせるあの男に腹が立つ。でも、その隙があったから俺が入り込めたのだと思うと、やっぱり腹が立つ」
あなたを俺だけのものに出来たらいいのに。と言う彼は、噛んだ跡を愛おしげに撫でてから、トニーの耳元へ遠慮もなく囁く。力ではかなわない相手に、マウントポジションを取られて言われる台詞にしては物騒である。もし、ここで下手なことを言ってしまったら、監禁でもされかねないような、暗い色を含んだ物言いだった。けれど、トニーは慣れたもので、「僕は僕のものだ」と言ってのけた。
それを聞いたオーガストは、さっきまで含んでいた暗いものを忘れたかのようにきょとんとしてみせ、それから破顔した。
「ははは。確かに、あなたはあなたのものだ」
では、あなたからも奪ってしまいたいです。と言って律動を激しくするオーガスト。だんだんと早くなるそれについていけず、トニーは呼吸を乱して快感に耐えた。これは、嫉妬をぶつけられているのだ。ソロの穏やかな束縛とは違う、息苦しいほど縛りつけようとしてくる、むき出しの感情。それは熱く、溶けたロウソクのようにトニーの胸にぼたぼたと落ちてくる。冷えて固まり、身を閉じ込める檻。誰にもやらないという独占欲。
深く早くなる律動に身を任せると、じわりとオーガズムがやってくる。トニーがいっとう大きく喘いで達したのに合わせて、オーガストも射精した。熱くて勢いのあるものを感じて、びくり、背がしなる。ゴムに収まりきらなかった精液がたらりと太腿に垂れた。それは、彼の体に収まりきらない感情の発露のようでもあった。
「あの男、中東で任務らしいですよ」
息を整えているトニーの隣に潜り込んだオーガストが、眉間にしわを寄せながら言う。彼はソロが嫌いなくせに、誰よりも早くソロの情報を手にしてトニーに教えてくれる。いわく「敵の情報を探るのは諜報員の基本的な仕事です」だそうだ。
「今回は一ヶ月くらいかな」
「じゃあ、今回はそれだけあなたを独り占めできるんだ」
嬉しそうに「独り占め」なんて子どもじみたことを言う彼がかわいい。トニーは、オーガストのふわふわとした前髪をかき上げて額に口づけ「そうだね」と笑って答えた。
ソロに「大事にしなさい」と言われたからではないが、トニーはこの子のことを大切にしたかった。薄暗い仕事に身を落とす子だから? 危ういバランスで何とかこちら側についているような子だから? いいや、どれも違う。ただ、愛おしいから、トニーはオーガストを守りたかった。それはすこし、母性にも似た心持ちだった。
「眠るまで側にいてくださいね」
「もちろん」
オーガストが寝息を立てるまで、トニーは側でゆったりと彼の二の腕をさすっていた。ベッドサイドの引き出しに入っている睡眠導入剤のことを思う。この子は、自分が床を一緒にするまで、ずっと薬と酒で眠ってきたというのだ。だから、トニーはオーガストの肌を撫で続ける。どうか悪夢を見ませんように、と。
無事に寝息を立て始めたオーガストのつむじに口づけて、トニーはそっとベッドを降りた。シャワーを浴びたかったのだ。ところが、無意識なのか大きな手のひらが、トニーの指を掴んで離さない。引き剥がそうとすると、子どもがむずかるみたいな顔になる。仕方がないので、シャワーを諦めてもう一度シーツに包まった。
嫉妬なんてしなくてもいいのに。とトニーは思う。
僕はそんなに価値のある人間じゃないよ。とも。
オーガストを嫉妬に苦しめているのが自分だと思うと、すこし苦しい。純粋に彼だけを愛することが出来たら、どんなに楽だろう。けれど、自分はずるくて欲深い大人なのだ。ソロの手も取りたいし、オーガストの手も取りたい。
だから、いまのこの三人で何となく付き合っている距離感は心地よかった。
──ずっと続けばいいのに。
それが無茶なことだとは分かっていても、願わずにはいられない。どうか、ソロとオーガストと、ずっと三人で居られますように。トニーは、少女が星に願い事をするような気持ちで祈った。