Morning Glory

 バーでクランベリージュースなんて頼むやつは生理中の女か、アルコールを飲んだら死ぬと思ってる場違いな馬鹿か、同僚に付き合って来たものの飲酒運転はできないと場をしらけさせるクソ真面目な警官のどれかだ。そうでなきゃ、どうして酒を出す店で酔えない代物を頼む?

 マイケル・サリヴァンは、明かりをつけていても眠れない何千回目かの夜にひとり、バーで浴びるほど酒を飲んでいた。何滴かは文字通り胸元に浴びていた。視界が揺れだすほど飲んで、ふらふらになって帰り道の路地裏で吐き、多少の正気を取り戻して泥のように沈む足を上下させ自宅へ戻ろう。そうすればきっと眠れる、と願って杯を空け続けていた。

 復讐に駆られた心の火を消してしまわないよう、たえず怒りや憎しみの燃料を投下し続ける日々は、マイケルの精神を消耗させていた。いつか実行に移さねばとかき集めた火種は、まだ投下されることはない。まだ、そのときではなかった。それがもどかしい。
 鬱屈とした思いを腹に抱えながら飲む酒は、いくら飲んでも酔える気がせず、もうそろそろやめときなとバーテンに釘を刺されてもなお注文を粘っていた矢先のこと。カウンターのすぐ隣に来た男が開口一番こう言ったのだ。「クランベリージュースをくれ」と。

 馬鹿じゃないのか。
 バーに来て最初に頼むのがクランベリージュースだなんて。酔いたくて来た俺が酔わせてもらえず憤っているのに、お前はここに一体何をしに来たんだ。理不尽な怒りの芽生えたマイケルは、グラスを乱暴にカウンターへ置いて隣を睨みつけた。
「なんだよ」
 その男は、神経質そうに眉をひそめてマイケルを睨み返していた。学生に毛の生えたような年齢にしか見えない。青い目が炎のように突き刺さる。思わず怯んでしまいそうな自分に腹が立って、マイケルは言った。

「酒場でクランベリージュース? 生理か? ガキは早く帰って寝ろ」
 次の瞬間、隣から伸びてきた手が空のグラスをひったくって、マイケルの頭にがつんとガラスのかたまりを叩きつけた。目から火花が出るかと思うほど激しかった。たたらを踏んでよろけたところを、男は容赦なく追撃した。マイケルの胸元を掴んで顔を殴ったのだ。これにはさすがに堪忍袋の尾も切れた。男を殴り返し、バーカウンターの上にあるものをしっちゃかめっちゃかにしながら暴れ、とうとう店を追い出された。ふたりは満身創痍だった。

「……酒が欲しい」
 追い出された先の路地裏に座り込みながら、ぽつりと呟いたのはビリーだった。
 額の怪我はかすり傷でも血が派手に出る。だらだらと流れる血を乱暴に手で拭い、「なあ」と彼はマイケルの方に振り向いた。暗がりでも分かるほど綺麗な青い瞳。そこにわずか血が混じって不思議な様相を成していた。だから、だろう。だから、マイケルはビリーに言った。「うちが近いけど来るか?」と。
 ビリーは不審そうな表情をしたが、すぐに気持ちを切り替えたらしい。「ビールがあるなら」と言って立ち上がった。マイケルは冷蔵庫の中身を思い返すが、たぶんあるだろうと踏んで「銘柄は選べないけどな」と返し、自分も立ち上がって自宅までの道を先導した。

 ふらふらになった帰り道だったが、半分は喧嘩で激しく消耗したせいだ。こんなはずじゃなかった。酒に酔えればよかった。なのに、どこか清々しい。こんなに激昂したのも、それが許される瞬間に立ち会えたのも久しぶりだ。子どもの頃の喧嘩を思い出した。あの頃は四人で、ときには殴り合いになるほどの激しい感情をぶつけあったものだ。
 思い出に引きずられて手元がおろそかになったせいか、自宅の鍵を二回取り落とした。三回目にやっと鍵を回してビリーを招き入れる。彼はせわしないこねずみみたいにきょろきょろと部屋を見回して、「いいところに住んでるんだな」と眉を下げてちょっと悲しそうな顔をした。まるで自分とは違う世界に来て場違いな思いをしているみたいだった。

「ビール」
「ああ、ありがとう」

 冷えた瓶を渡すと、ビリーは素直に受け取って礼まで言った。ふたりは、さっきまで血塗れになるほどの喧嘩をしたというのに、そこそこ仲のいい友人のようにソファへ並んで酒を煽った。馬鹿みたいな光景だ。ちらりと隣を見ると、ビリーが一気に瓶の中身を飲み干すところだった。ちいさな喉仏が動いて小動物みたいだった。舐めたい、と思った。百年ぶりに湧いた性欲みたいだった。けれど、マイケルはそれをビールと一緒に飲み込んだ。
 こんな感情を誰かにぶつけるのはいつだって怖かった。自分があの看守たちと同じ生き物になったようで。だから誰とも付き合わないし、キャロルにも壁を作ってしまう。こんな気持ちはきっと、あの少年院で酷い目に遭ったスリーパーズにしか分からないだろう。

 ビールを二本、三本と空けながら、マイケルはビリーと自分の怪我の手当をした。お互い額の血が止まらなくていい加減うんざりしはじめていたのだ。ビリーは聞き分けのいい子どもみたいに従順に傷を見せた。なんだか神聖な気分で脱脂綿を傷にあてる。じわ、と広がる血はいつの間にか止まったが、マイケルの感じたものは止まりそうになかった。もう一本ビールを空ける。
 目の中に入った血を洗い流したい、と言うのでビリーをバスルームに案内した。キッチンのシンクには血を流したくなかったのだ。彼は「ついでにシャワーも借りたい」と言うので、それも許した。なんの思惑もなかった。お互い。ほんとうに。

──なのに、どうして俺たちは抱き合って寝てる?

 意識を失っているビリーを腕に抱きかかえ、マイケルは途方に暮れていた。
 シャワーを浴びて裸にジーンズだけ履いたビリーが出てきたのを、マイケルはぼんやりと眺めていた。アルコールがいい感じに回って、世界がぼやけていた。そこで、ビリーがオレンジのピルケースを取り出してざらざらと飲み始めたのだ。致死量かと思うほどの量だった。ばち、と目が冴える。

「馬鹿、死にたいのかよ!」
「関係あるかよ!」

 キッと怒りにきらめく青い瞳がマイケルを射抜く。
 悲しみを固めたら怒りになったような、複雑な表情だった。ビリーは着ていたシャツをまとめて出ていこうとした。その腕を掴んで止める。あんな量の薬を──なんの薬かは一目瞭然だ。不眠症が酷かった時期に自分も処方された代物だから──飲んだらそのうちぶっ倒れる。いま彼を外に出すわけにはいかなかった。

「俺は検事だ、こんな夜中に酒と眠剤飲んだ奴を街に出せるかよ!」
「はン、検事様はお優しいとみえる! これならバーで頭かち割ってたほうがよかったぜ!」
「なんだよお前、訳分かんねえ……だったらなんでうちまでついて来た!?」

 ぐ、とビリーが口をつぐむ。そして、ぐらりと体勢が崩れた。アルコールと眠剤、それに頭に上った血のせいで一気に眠気が襲ってきたのだろう。ソファの背もたれに手をついて首を振るビリーは、しかし逆効果だったらしく、どっと倒れ込んだ。驚きとやはり、という気持ちでマイケルは彼に近寄る。威嚇していたのが嘘みたいに静かだった。しかめられた眉間のしわだけが、彼の複雑な苦悩を表していた。

 もしかすると、ビリーも自分と同じなのかもしれない。
 マイケルがそう思ったのも無理はなかった。ビリーの上半身にはムショで入れたようなタトゥーがいくつかあったし、名乗っていたコスティガンの姓はボストンでは名の知れた犯罪者一族にも当てはまる。けれど、マイケルにはビリーが芯からの悪人には見えなかった。ずっと、ほんとうの自分を隠して生きているように思えた。他人との間に壁を作り、誰とも深く付き合わず、いつか来る復讐の機会を待つ、怒りだけに支えられた忍耐。そんな自分と似た存在。

 ソファに倒れ込んだビリーを、そのままにしておけなくて寝室に運んだ。他意はない。ベッドの方が寝心地がいいと思ったのだ。抱きかかえた彼をそっと下ろしてから、今夜自分の寝る場所について考えてしまった。まあいい、ソファで寝るか。と腕を離そうとしたが。ビリーはマイケルの腕を離さなかった。まるで「行くな」と訴えるかのようだった。

「なんだよ、お前めちゃくちゃだな」
 喧嘩を売りつけてきたかと思ったら家までついて来て、素直に礼まで言ったかと思えば怒鳴り合いになって。それなのにいまなんか、俺の腕にまとわりついていやがる。ちょっとかわいい気もしてきた。気まぐれな動物っぽくて。すり、と手のひらに頬を擦りつけてくるのが健気っぽく思えて、酔いも回っていたこともあり、マイケルはビリーの隣に寝転がった。  そして、明け方に目が覚めたとき、お互い抱き合って眠っていたことが分かったのだ。

「……何もしてねえだろうな、検事様」
「そっちが離さなかったんだろ、眠り姫どの」
「誰が姫だクソッ、ああ、目覚めわりいな……」

 なんだかおかしくなってマイケルが笑うと、ビリーも笑った。眉間のしわが取れた顔はあどけなくて子どもみたいだった。「なあ、」ビリーが声のトーンを落として言う。「他人をためらいなく殴れる奴はまれなんだ。とくに善人になりたいと思ってる奴には」まるで告白だった。それはお前のことかと聞く必要はなかった。「そう」なのだ。ビリーは善人なんだろう。暴力的な一面も彼のほんとうなのだろう。

「俺を殴ったことを謝りたいなら、謝罪は受け入れた」
「なんだよ、違えよ。ま、でもそうだな、あれはやりすぎた」

 額の傷はかさぶたになって乾いていた。するりと撫でられると、くすぐったかった。マイケルは、子どものときに仲間四人で何をするわけでもなく並んで寝転んだ日のことを思い出していた。場所はどこでもありえた。港、倉庫、ビルの屋上。会話がなくても気にならなかった。ただ、たゆたう時間をともに過ごすだけでよかった。ビリーとの時間もそれに近いものがあった。

「飯は?」
「朝はあんまり食わない」
「俺もだ。外でホットドッグでも食おう」

 近くの角にスタンドがあってさ、と話すマイケルは、けれどビリーの腕から離れる気配はなかった。いつかあの真夏のことを話せる人かもしれない。そのあとのことまで話せるかもしれない、ビリーの抱えたものも話してもらえるかもしれない、と思っていた。
 ふたりはしばらくお互いの額の傷をなぞったり、鼻の形をなぞったりした。言葉で何かを伝える代わりに、指先で情報を探り合った。目を閉じて相手の輪郭を確かめるみたいに、触ることで相手の魂のかたちまで分かりそうだった。

「セックスしねえの」
 ビリーがあけすけに、でも口にしたことをすこし後悔するような調子で言う。きっと、こういう接触はそういう展開にならなきゃいけないと思い込んでいるのだ。マイケルは顔を覆って「はは、」と笑った。そんなことを聞かれるのがおかしかった。そして真剣な眼差しで「しないよ。君が望まないなら」と返した。ビリーは驚いて、それからほっと安心した表情をした。それだけでじゅうぶんだった。彼の警戒を、いまやっと解けたのだ。

 カーテンの隙間からゆっくりと朝日が差し込み、マイケルとビリーの顔にあたる。
 ビリーはマイケルの透き通る碧眼を覗き込み、そこが訴えていたものを正しく読み取ったので、唇を重ねるだけのキスをした。それは、いまのところビリーも望んでいたことだったので、マイケルは喜んで唇を受け入れた。しだいに明るくなりゆく眩しさと暖かさの帯が貼りついて、苦しいくらい満たされていた。