17. 眠れない夜だから

「こんな時間に帰宅?」
「そっちこそ、こんな時間に何してる」

 時計の針がてっぺんを越えてもう二時を回っていた。ジャッキーは紆余曲折あって難儀した仕事をようやく終えて帰宅したところだった。疲れ切っていた。肉体的な疲労はもとより、精神的にかなり疲れていた。今回は仲介役として立ち回っていたのだが、間で調整する役というのはあっちの意見に振り回され、こっちの都合に振り回されて散々だった。

「ひどい仕事納めだった」
「殺し屋にも仕事納めなんてあるのかい?」
「ない。俺が今年はもう受けないってだけだ」
「そう」

 コブはずず、とカモミールティーを啜った。有名なドイツのブランドの茶葉だ。香りがいい。カモミールティーを飲むとリラックスしてよく眠れると聞いたので、ためしにショッピングモールの専門店で買ってみたのだ。ふむ、柔らかな甘味が舌にやさしい……けれど、不眠に効くかどうかは微妙な感じだ。

 神妙な顔をしてマグカップに口をつけているコブを見て、ジャッキーも悟ったのだろう。「なんだ、眠れないのか」と、近寄ってまぶたに口づける。「ん、」コブがカップから唇を離して、なつく猫のように伸びをして彼の口髭にそれをこすりつける。

「さりさりする」
「剃れってか?」
「違う。気に入ってるんだ」

──俺も今日は仕事納めだったから、なんだか眠るのがもったいなくて。

 と話すコブの仕事とは、もちろん表の顔である建築設計士の仕事である。裏の顔たる夢の案件は、いまではごく親しい人間からの依頼しか受けていないし、それだって産業スパイとかいう物騒なものではなく、精神的な問題を抱えた人間の治療に関することが多い。まあ、自分たちは物騒な案件の方で出会い、すったもんだのあげく一緒に暮らしているわけだが。

「もったいないって何だ、徹夜で遊びたい学生か?」
「明日はいくらでも寝坊出来るって思ったら、逆に目が冴えない? 徹夜で何して遊ぼうか?」

 挑発的な物言い。にまっと口角を上げてジャッキーを誘う彼はマグカップを置いて、いたずらっ子の表情でジャケットの襟に手を差し入れてきた。おっと、そう来たか。と思ったのはつかの間。するりと脱がしたジャケットを手に持って、コブは「コート掛けに吊るさなきゃ」とくすくす笑いながら玄関の方へぱたぱた走り去ってしまった。

──クソ、わからねえな。

 舌打ちが出なかったのは奇跡だ。いままでだってコブのことを理解出来たためしはないが、今夜は一段と理解不能の行動に振り回されているような気がする。そこが天真爛漫で可愛らしいと感じることもあるが、憎らしいとも思う。仕事だって自分の思うようにいかないってのに、彼なんかよけい思うようにはいかないってものだ。

──だがまあ、その方が燃えるだろ。なあ。

 とりあえず、ジャケットを置いて戻ってきたコブと今年の労をねぎらって酒でも飲むか。カモミールティーなんかじゃ眠気の足しにもならない夜だ。と、ジャッキーは秘蔵のウイスキーを部屋から取って来て振る舞うことにした。大事にとっておいたそれをぺろぺろっと半分以上飲まれてしまい頭を抱えるのは、もうあと何時間かあと。