//Take me to your home
何もかも上手くいかない日はある。
ポケットから煙草の箱を出したら空だった。書類にサインしようとしたらペンのインクが切れていた。昼食をとりに外出したら財布を忘れていることに気づいた。おまけにコーヒーメーカーも故障した。
最後のひとつは、不味いコーヒーを飲まずにすんだから幸運だったかもしれない。けれど、眠気覚ましに欲しかったカフェインもニコチンもないとなると、あとは散歩でもするしかない。
トニーは、デスクを離れて夕方の閑散とした駐車場スペースへ出る。外はまだすこし明るかった。いまは冬の終わりだ。寒さと暖かさの入り交じる日々の気候。今日は暖かい方だった。
まだ残る仕事。深夜までかかるだろう。このまま日付が変わるまで残るならば仮眠室に泊まってしまおうかと考える。毎日着替えないと気持ちが悪い、という性分でもない。だいたい、部署の同期もそんな感じだったから、一日くらいシャワーも浴びず、翌日くたびれた格好を晒すことになっても、誰も気にしなかった。
「今夜も残業かい」
いや、一人、そういうことを気にする質の人物がここにいた。
「──ソロ」
「こんばんは。君をディナーに誘おうと思って寄ったんだが、その様子だとまだかかりそうだね」
ナポレオン・ソロ。
この冷戦の最中だというのに、あろうことか敵同士であるはずのアメリカとソ連のスパイがチームを組んだらしい。どうやらイギリスの組織が一枚噛んでいるらしいが、ソロはそのチームのCIAを代表とする一員だ。
クールを気取った伊達男。金庫破りと料理の得意な元大泥棒という、スパイ映画の主人公も顔負けのプロフィールの持ち主。もちろん、こういう登場人物にお決まりの「プレイボーイ」というあだ名も付いている。
彼はチームと世界中を回っているので、局にいることは少ないが、顔を出せば誰もが歓迎と厄介払いをしたくなる、そんな両極端な評価をされる人物。
「局に泊まるのなら着替えを持ってこようか。ディナーも届けよう。しばらく暇なんだ」
「それはつまり、またおれの家に居座るつもりなんですか……」
──彼の厄介な点その一。なぜかおれの家の合鍵を持っているうえに、勝手に泊まりに来る。
トニーは心のなかでため息を吐いた。いつの間に作ったのか、自宅の合鍵を握られてしまってから、ソロはチームの活動がないときはトニーの家に寝泊まりするようになってしまった。
この、年上の先輩エージェント(といっても、彼は刑期を短縮するためにCIAに飼われている犯罪者にすぎない)は、まったくこちらの都合を考慮せずに行動するのが難点だ。
妻子と別居している男の家がいつも片付いているとは限らないというのに、突然訪問してくるのだからたまらない。今回は事前に外で会えたから心の準備は整えられるが、出来れば連絡をしてから現れて欲しいものだ。
彼の訪問は心臓に悪い。いい意味でも、悪い意味でも。
「そんな嫌な顔をしないでくれよ。君だって会いたかっただろう。この間の出発前夜、あんなに可愛らしく俺にすがりついて離れなかったくせに」
「それはッ!」
──彼の厄介な点その二。ところかまわず二人の秘密を口にするところ。とくに夜の。
「こ、こんなところで、そんな、言わないでください! 誰に聞かれるか分かったもんじゃないのに……」
「誰もいないよ。君は図体はでかいのに小心者だなあ」
「慎重なんです。人質救出を専門にしていると、もしもの可能性をいつも考えてしまうから」
「職業病ってやつかい? お互い難儀な職に就いたものだよ」
面白そうに笑うソロの横顔が眩しい。水平線からすっと最後の西日が差しているのだ。けっして、会いたかった気持ちの現われが幻想となっているのではない。
トニーは、そう言い訳でもしないと涙が出てしまいそうだった。
──彼は綺麗だ。
はじめて恋をする少女のようなときめきをおぼえてしまう。日の落ちた駐車場はすべての輪郭をうすぼんやりとさせてしまうのに、ソロの横顔だけがいつまでもはっきり見えている。
──重傷だ。
何もかも上手くいかない日の一番最後に現れて、すべてを帳消しにしてしまうひと。
煙草がなくても、ペンのインクが切れていても、昼食を食べ損ねても、コーヒーメーカーが故障しても、そんなものぜんぶ、彼が今夜会いに来るための犠牲だとしたら、安すぎるものだった。
「さあ、日も落ちたことだし、戻るかい?」
戻れるわけがない。ポケットには車の鍵が入っている。鞄も、書きかけの書類も置いて、この人と一緒に帰宅してしまいたい。と、思ったときには足が局とは真逆に向いていた。
「いいえ、帰りましょう。どうせ、だらだら続けていたって書類はまた追加されるんだから」
「ふふ。思い切りがいいな。俺に似てきたんじゃないか」
「まさか。その代わり、明日の朝は早くに出ますよ」
暗に、夜の牽制をしてソロと車に向かう。他人の車だというのに、彼は優雅に助手席へと座り、勝手知ったる様子でラジオを音楽番組に合わせた。
やたらと明るい歌謡曲。「幸先がいいね」と調子よくのたまう姿に呆れを通り越して感心してしまった。
──彼の厄介な点その三。何もかも自分の思い通りになると自惚れているところ。
すくなくとも、おれはいま、あなたの思い通りになってしまっているのだろうな。トニーはソロに見えない角度でうっすらと口角を上げながら、ウインカーを出して駐車場を出た。