HARDER BETTER FASTER STRONGER - 2/4

02.

 

「そんなに飲むと胃が荒れるぞ」と言われて、自分がはじめてコーヒーを飲んでいることに気づいた。局の給湯室特製・煮詰まった黒い液体のそれは、とても正気で飲めたものじゃない。そう、オーガストは正気じゃなかった。

 昨晩はトニーの家に行き、一緒に食事をして寝た。もちろん、多分に大人の意味を含む「寝た」だ。体を許してもらってからまだ日は浅いが、相性はいいと思っている。ずっと腕に閉じ込めておきたくなるようなひと。今朝も、裸でシーツに包まる彼を見て愛おしさが溢れてはとまらなくなった。けれど、仕事があったのでオーガストはトニーを残して先に出ようとした。そのとき、彼が寝言で呼んだのだ。「ソロ」と。

 ナポレオン・ソロ。

 その男の名は局で知らないものは居ない。ロシアとイギリスのスパイと手を組んで世界を飛び回っている特殊なチームの一員。元は美術品専門の泥棒だったのが、CIAに目をつけられて、刑期と引き換えにスパイとしてスカウトされたのだ。異色の経歴に、目立つ容姿。普段はそこらじゅうを移動しているせいか、局に居るところはめったに見ないが、一度目にしたら忘れられないような男だった。優秀なスパイで、仕事をしくじったことはないらしい。そのうえ眉目秀麗の女ったらし。まるで映画なんかに出てくるフィクションのような人物。

 ただし、犯罪者だ。法を犯して快楽を追いかけるような。今でも仕事でちょろまかした美術品を横流ししているのでは、という噂も聞く。羽振りのよさは、CIAの給与だけでは賄えないように思える。

 まったく、聞いているだけで虫唾の走るような男だが、オーガストとソロは顔が似ているということでよくからかわれたので、余計に好きになれなかった。「髭を剃ったらそっくりに見える」だとか「生き別れの兄弟説」なんていう話も聞いた。もちろん、血縁関係はまったくない。世の中には自分と似た人間が三人は居る、というが、よりによってこんな男と似なくてもよかったのではないだろうか。

 まだ本人と面と向かって話したことはなかったが、オーガストには分かっていた。自分とナポレオン・ソロは相容れないと。

 そんな男の名を、何故トニーが?
 理由は分かっている。
 トニーはソロのことを愛しているのだ。

 それは、オーガストがトニーをずっと見てきたから感じたことであって、トニーから直接聞いたわけではないが、確信している。あの華麗なる映画スターのような元・大泥棒の女ったらしに、トニーは健気にも密やかな愛を捧げているのだ。

 引き裂きたかった。

 そんな男は振り払って、自分の手を取ってもらいたかった。だから、あんなに唐突に告白してしまったのかもしれない。思いを受け取ってもらえたのは嬉しかったが、もしかするといつ帰るともしれない男の代わりにされているのでは、とよぎることもある。けれど、トニーの顔を見ていれば分かる。彼は手先は器用だが、恋愛関係の隠し事が出来るほど器用ではない。きっと、ソロを愛する気持ちも、オーガストに応えた気持ちも本物なのだろう。世間ではそれを不義だの二股だの言っていい顔をしないだろうが、そうじゃない。トニーは愛の懐が深すぎるのだ。

 それに感謝することもあるが、一夜を過ごした朝に別の男の名前を呼ばれたのでは、それを恨みもしたくなる。

「どうして俺じゃないんですか」

 煮詰まったコーヒーをもう一口飲んで、胃に流し込む。強烈な苦味が舌に残って不味い。だが、オーガストの心中はもっと苦かった。

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「あの熊みたいな後輩、なんとかした方がいいんじゃないか」

 同僚のマリノフにいわれてはっと顔を上げると、部署の入り口にオーガストが佇んでいた。怖い顔をしている。誰もが彼の半径三メートルには近づきたくないようで、遠目に見るとなかなか面白い光景になっていた。

「今朝ちょっと、その、やらかしたらしいんだ」
「何を」
「寝言でソロの名前を呼んだらしくて」
「ああ、なるほど」

 訳知り顔でマリノフが頷く。彼はソロとトニーの関係を傍観する人間の一人だ。

「悪い男だな、お前は」
「やっぱりそう思うか」

 本命が居ながら他に手をのばすのはルール違反じゃないか? という反面、その本命が浮気を勧めてくるのだから、すっかり感覚が変になっていた。けれど、オーガストと居るとソロと居るときとは違った、慈しみ守りたくなるような愛情を感じて離れがたいのだ。

「まあ、ほどほどにな」

 面倒くさそうな雰囲気を感じ取ったのか、マリノフは退散し、オーガストが近づいてくる。せっかくの男前が眉間のしわで近寄りがたくなっていた。ほんとうなら、その額に口づけて「どうしたんだい」と聞いてやりたいところだが、ここは職場だ。トニーはいちおう慎みと常識を持っていたので、職場でそういうことはしないと決めている。代わりに、額にかかる前髪をかき上げてやり、「どうした?」とやさしい口調で聞いた。

「俺にとってはどうでもいいけれど、あなたにとっては大事な情報を持っているので、白状します。今夜、ナポレオン・ソロが帰還するそうです」

 いいながら、ますます嫌悪感をつのらせたような顔をして、オーガストは一息で報告した。それを聞いたトニーはというと、嬉しさを隠しもせず、ほわりと微笑んで「よかった」とだけ言った。その「よかった」に万感の思いが乗っていたので、オーガストは嫉妬することすら忘れてトニーの表情に見入っていた。かわいい。無邪気に喜ぶ子どものような顔をするのだな、このひとは、と思った。一瞬自分も微笑みかけたが、その表情をさせたのが自分でないことを思い出し、オーガストはまたしかめっ面を作った。

「今朝のこと、まだ許してないんですからね」
「ふふ、分かってる」

 熊のようだ、と例えられた強面も、トニーにとってはご機嫌の悪い子どもみたいだった。手の掛かるところが一緒だ。彼のご機嫌を取るべく今夜の約束をしたかったが、ソロのことを聞いたら、どうしても彼に会いたくてしょうがない自分が居るのを自覚して笑ってしまう。

「わかってます」

 オーガストが唐突に言うので、何のことかと思ったら、「今夜はあいつと会うんでしょう」と続いたので驚いてしまった。浮気相手の家に行く母親を睨みつける子どもみたいな顔。「うん」と素直にいってしまってから、これはちょっと酷かったかもしれないと思った。けれど、心は隠しようがない。

「俺のことを置いていくんでしょう」というような顔があんまりにも可哀想で、だから、トニーはいっそ頭のおかしい提案をしてしまった。
「君もおいでよ」
「君がウォーカーくんか。よろしく」

 胡散くさい笑顔で差し伸べられた手を無視して、オーガストはソロを睨みつけている。トニーを腕に抱きながら。まるで牽制だ。

 オーガストがトニーと一緒に彼の家に帰ると、さも自分の家だとでもいわんばかりの態度でソロが迎えた。何故かジャケットを脱いだスーツ姿に料理用のエプロンを身に着けている。「今夜は君も来るって聞いたから頑張っちゃったよ」と言いながら、握手を無視されたことなど何でもないように、ソロはキッチンへと向かった。

「ソロ、おかえりなさい」
「うん、ただいま」

 トニーとソロのやり取り。一言ずつ会話を交わしただけなのに、彼を腕に閉じ込めたままなのに、どうしてか二人が濃厚な口づけでも交わしたかのように錯覚してしまう。それくらい感情のこもった会話に思えた。面白くない。オーガストにしてみれば、愛する人の愛する人、つまりは本命との対峙なので、まったく気が抜けない。つい、抱きしめる腕に力が入ってしまった。

「うーん、まるで母親の再婚相手を認めない子どもってかんじだな」
「でしょう。かわいいんです。彼は」

 また二人のやり取り。何やら自分のことを言っているらしいが、よく意味が分からない。

 そして、さらに意味が分からないことに、オーガストは気づいたらソロとトニーと一緒に食卓を囲んでいた。「とりあえず、飲んでいて」と出されたワインとつまみ。次々に出てくる温かい料理の数々。ポタージュ、温野菜、ステーキ。「若い子だから食べるだろうと思って」とか、「トニーは気を抜くとジャンクフードばかりだから」と言って。訳が分からない。

「ほら、オーガスト。美味いだろう」

 トニーが顔をほころばせている。正直、味は確かによかったし、ワインもすすんだ。デザートのシャーベットまで出てきた頃には、すっかり胃袋を掴まれていた。

「警戒心はとけたかな」

 トニーが食器を片付けている間、一人になったオーガストにソロが言う。まさか食欲に負けて警戒を怠るなどという、諜報員にあるまじき失態を犯すとは思わなかったが、たしかに警戒心はすこしだけほどけていた。言葉には出さなかったが、ソロはオーガストの微妙な表情から察したらしく、にやりと微笑ってワインを一口飲んだ。

「トニーを愛しているんだって?」

 ワイングラスをテーブルに置いてから一呼吸置いて、ソロが問う。やわらかい口調だが、これは尋問だ。突然の質問にもオーガストは驚かなかった。むしろ、こちらからその話を切り出したかったからだ。

「ええ、愛してます。あんたよりずっとね」
「愛が何だか分かってもいないくせに、言うね」
「あんたには分かってるのか?」
「分かっているよ。愛は彼の形をしている」

 その言い方が何とも愛おしそうで、目を細めてキッチンの方を見やる姿が様になっていて。オーガストは素直に悔しいと思った。

「絶対あんたには渡さない」
「そうかい」

 子犬をあしらう狼のようなていで、ソロは何でもないようにオーガストの言葉をあしらった。まるで、「そんなことはどうでもいい」とでもいうように。

「ずいぶん自信があるんだな」
「ないよ。今回もまだ愛されているようで安心したくらいだ」

 慈しむようにトニーの背中を見つめるソロは、さっきまでの余裕を持った男とはまるで別人のようだった。

「君と居るときのトニーは、安らいでいるように思うよ。俺ではあんな顔をさせられない。きっと、俺を待つより君と一緒になった方がトニーにとってはいいのかもしれないな……でもね、」

 目を伏せ、ワイングラスのステムをくるくるといじりながら話す様子は、弱気を見せる男のようでいて、しかし、次の瞬間、目にぎらりと光が灯ったのをオーガストは見た。

「手放す気はないんだ。絶対に」
「俺だって、諦める気はありませんよ。絶対に」

 お互いに顔を合わせて、真っ直ぐと目線を合わせる。ばちり、火花でも散りそうな雰囲気が漂う。まったく、この男は役者だ。きっと、こんな顔はトニーに見せたことはないんだろう。誰よりも彼を必要としているくせに、執着を隠して、追わせているていで、するりと愛をかわしてしまう。馬鹿な男だ。素直に受け止めていれば、ちょっとでも追う仕草を見せていれば、トニーは間違いなくあんたのもとに留まっていてくれるだろうに。

「それはそうと、トニーは最近とみに美しくなったと思わないか」
「はあ?」

 「それもこれも、君のおかげなんだから、複雑なんだよねえ」などと言いながら、ソロはさっきまでの目つきから一転して胡散くさい笑みを浮かべている。役者め。まったく、この男が分からない。「まあ、そういうわけだから仲良くしていこうか、ウォーカーくん」という握手を、オーガストはやっぱり無視した。