病室に飾ってある花を一輪ずつむしる。
床に落としたのを構わず革靴の底で踏み潰すから、白い花弁はひとつ残らず黒ずみ、もとのかたちを失ってしまった。これでオーケーだ。こんなもの持ってくる看護師が悪い。デイジーの花なんか、この世からぜんぶ消えちまえばいいんだ。タイラーは、眠り続ける青年の頬に影を落とす睫毛をじっと見つめて、いまも彼が目を覚まさないことに安心する。どんな夢を見ているのだろう。理想的な愛の夢を見たまま眠っていればいい。現実の世界じゃ、女は電話なんか掛けてこなかったし、あんたは撃たれて死んだのだから。永遠の愛なんてなかった。残念だったな。まあ、おかげであんたは文学史に名を残し、おれが生まれるきっかけになったんだから。なくてよかったのかも。
さて、撃たれて死んだと言ったけれど、ここに横たわる青年は何者か。ベッドに掛かった名札には「ジョン・スミス」と書かれている。明らかに本名ではない。この病院に身元不明で運び込まれた患者は、全員ジョン・スミスということにされるからだ。おれはあんたのほんとうの名前を知ってるけど、たぶん文学オタクの人間も、みんなあんたの名前を知ってる。
「ジェイ・ギャツビー」
タイラーが呼んだのは、有名な古典小説の主人公と同じ名前だった。
そういえば、何度か映画にもなってたな。夜勤のバイトでフィルムを回しているとき、華々しい男女の恋の駆け引きだの痴情のもつれ合いだのの合間に、コンマ一秒だけ男性器の写真を入れてやったっけ。その男女の、男の方。ジェイ・ギャツビーは、たしかに劇中で死んだ。そもそも原作小説のラストでとうに死んでいた。一九二五年に小説が出版されてから百年近く、もうずっと死んだままだった──昨日までは。
土曜夜のクラブ活動を終えてオンボロ屋敷に帰ってきたら、キッチンの床に石鹸にするはずの脂肪がぶちまけられていて、白く固まり始めたもののなかにジェイが倒れていた。時代遅れの水着のまま、大理石でできた彫刻みたいに横たわった胸から、ひとすじ赤い血が流れていたのがあんまり綺麗で。タイラーは隣に横たわってしばらくぼうっと眺めていた。ブロンドがかった睫毛を見て、長いな、脂肪のしずくが固まってついてる。とか、なんかザーメンでも引っかけたみたいだ、とか。後から追いついて帰宅した相棒が悲鳴を上げて救急車を呼ぶまで、タイラーはずっとジェイの顔を観察していた。相棒や救急隊員に説明を求められても、知らぬ存ぜぬの一点張りで通したけれど、彼が誰なのか、ほんとうはひと目でわかっていた。
「あんたに会えて嬉しいよ」
血の気の薄い顔色で眠り続けるジェイの髪を梳く。一月近く入浴していないせいで、すこしべたついていた。ふわふわと額にかかる前髪が懐かしい。歳の割にジジくさい匂いのする男物の香水は、たしか恩人のジジイにもらったからって似合いもしないのにつけてたっけ。そんなものより、生身の肌から立ちのぼるヤワな花みたいな匂いが好きだった。そのくせ、あんた自身は花なんてかわいらしいもんじゃなくて、どこか暴力的なまでの熱を内に秘めていた。まるで沸き立つマグマみたいな。その熱に触れたかった。触れて、溶けて、混じり合って。
タイラー・ダーデンは、ある意味ジェイ・ギャツビーと同一の存在だったので、物語の構造における登場人物の役割だけでなく、肉体まで同一になれたらどんなにいいかと考えてみた。眠るジェイの頬を中指の背で撫ぜる。皮膚と皮膚に隔てられることなく、彼とほんとうにくっつくことができたらいいのに。タイラーは、ジェイの怒りになりたかった。劇中で、男に掴みかかって下賤の言葉を吐き出したジェイ。苛烈な感情を剥き出しにしたあの、一瞬の熱になりたかった。
「たぶん、あれがおれの受胎告知だった」
最後にジェイの唇を指でなぞってから、タイラーは病室を後にした。
──そうして、二十世紀のカルト・ロマンスと呼ばれた物語は最終章へ向かった。
タイラー・ダーデンは死んだとも、死ななかったとも言われているし、何処かの病院から身元不明の青年が消えたとも、消えなかったとも噂されている。ただ、とある田舎のデイリークイーンで真冬にアイスクリームを買うふたりの姿を、見た人間がいるとか、いないとか。
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続編:真夜中のアイスクリーム