Be Mine

──致死量は五滴です。一度にそれ以上服用しないでください。

 手元に置いた薬の注意書きを読む。声に出してみると、なんとも緊張感のない響きだった。ギャツビーの手のひらに収まるくらいちいさな薬瓶は、ミニチュアの香水瓶みたいに可愛らしくて美しい。けれど、中身は毒ともいえる代物だった。

 麻薬性の薬でね、という瓶を売っていた男の台詞が蘇る。「相手に毎日一滴ずつ飲ませれば、瓶が空になる頃にはあんたに夢中だよ。否が応でも」という説明も。なんでも、薬が効いているとき側にいれば、その人間のことを愛するよう刷り込まれてしまうらしい。便利な薬だな、としか思わなかった。おそろしいものだと感じなかった。だって、ギャツビーには薬に頼ってでも愛されたい相手がいたのだから。

「ぼんやりしてるな。疲れてる?」
「……いや、すこし考え事」

 彼に呼び掛けられて意識を現実に戻す。
 タイラー・ダーデン。いまギャツビーが欲しくてたまらない男。毎週末のパーティで雇う臨時のバーテンダーのなかに彼はいた。白い制服を着こなし手際よくシェイカーを振るタイラーは客に人気で、ワイルドな魅力あふれる外見と知的な受け答えにギャップがあって、よけい惹かれてしまうとちょっとした評判になっていた。

 最初は、そんな彼を一目確かめてみようという好奇心だった。主催者という正体を隠して酒を注文し、一言「美味しい」と伝えるだけ。なのに、タイラーは初対面でギャツビーの正体を見破った。周りの喧騒に紛れてしまいそうな小声で、「あんたがジェイ・ギャツビーだろう」と。どうして分かったのか聞いても、いまだに教えてくれない。ただ感じたのだとしか説明してくれなかった。けれど、それでじゅうぶんだった。ロマンスがはじまるには。

 タイラーは、ほとんどその日暮らしの根無し草同然という生活をしていると話していたので、よければうちに住まないかと提案した。なにせ部屋は百以上もある。いきなり下宿を提案して警戒されるかもしれないと思い、「寝酒を入れてくれる人を探していたんだ」と話すと、彼は嬉しそうに「任せな」と言って、その夜から邸宅で暮らし始めることになった。
 どの部屋を使ってもいいとは言ったけれど、タイラーはギャツビーの寝室にいちばん近い部屋を選んだ。遠慮がないのは裏表のない証拠のようで、好感が持てた。もしかしたら、彼も僕に何か感じてくれているのかもしれない、という希望もあった。

 彼は、ほんのわずかな持ち物も処分して、ギャツビーの邸宅にあるものをなんでも自分の物のように使った。石鹸、カミソリ、衛生用品はもとより、衣類や靴に至るまで。邸宅には各地から毎日ファッションショーができるほど服やら靴やらが送られていたので、困ることはなかった。むしろ、タイラーを自分のもので着飾ることができて愉しかった。一度、新品のシャツではなくギャツビー愛用のシャツをタイラーが着ていたときなど、背筋をぞくぞくとしたものが駆け上がっていったものだ。

──もっと彼を僕のものにしたい。
 仄暗い欲望が脳裏をかすめたのは、その頃からだった。

「ねえタイラー、紅茶を淹れたんだ。お菓子も頂いてね、ひとりでは多いから、一緒にお茶会でもしようじゃないか」
 頭の中で何度も練習した台詞を口にする。声は震えていなかっただろうか。不自然に聞こえなかっただろうか。不安の広がる胸中をよそに、タイラーは「おう」とすぐに茶会の席についた。いつも浮かべている不敵な笑みが、今日はすこし和らいでいる気がする。

「こういうの誘われるのはじめてだな」
「君は敬遠するかと思って……」
「いや、あんたとならいつだってこうしたい」

 懐っこい子どもみたいに歯を見せて笑う顔が眩しい。
 僕はこれから、君に毒を盛るのに。
 紅茶に一滴垂らしたそれが、ほんとうに効き目のあるものか分からない。それでも、一縷の望みをかけて彼に出す。タイラーは疑わず茶器に口を近づけ、「なんか高級な感じがする」と眉を下げて一口目を飲んだ。菓子をつまみ、会話に花を咲かせ、また一口。そうして飲み干した器をかかげ、「もう一杯もらえるか?」と言う。どきどきと緊張の走るギャツビーが拍子抜けするほど簡単だったし、なんの効果もない様子だった──と、ため息を吐いたときだった。

「あ?」
 タイラーの頭がくらりと傾いた。
 もしやまずいものだったのかもしれないと駆け寄って彼を支えると、タイラーはぼんやりした表情でギャツビーの顔をじっと見つめていた。「ジェイ」呼ばれたので、反射的に「タイラー」と彼の名を呼ぶ。
「ジェイ、ジェイだ。ふふ、おれのジェイ」
 その言葉に胸がきゅうと切なくなるほどの幸福を感じた。

──かわいい。
 ちいさな子どもみたいにくふくふ笑いながら、タイラーはギャツビーの顔を両手で挟んで確かめるように撫ぜていた。ジェイ、おれの、おれだけの。いっそ加虐性を含んだ言い方を、ギャツビーは喜んで受け入れた。そうだよ、君の、君だけの僕だよ。額に口づけて子どもをあやすように優しい声を掛ける。そうしてしばらくしていると、タイラーはテーブルに突っ伏すように眠ってしまい、ギャツビーは薬の効果を確信した。

 お茶会だけでは足りないと、食事の席でも、眠る前に付き合ってくれる酒のときでも、ギャツビーはタイラーに薬を盛り続けた。手のひらに収まるほどちいさな瓶に入った薬は、するすると順調に減っていった。それでもまだ、あと何滴かかるのだろう。やきもきする気持ちと、しかし、確実にタイラーはギャツビーに依存するようになった様子に満足する気持ち。
 昨日は薬の効いていない状態でも、タイラーはギャツビーに触れる客をはらいのけて「俺以外の男でも女でもそれ以外でも、気安く触らせないでくれ」と嫉妬もあらわに言ってのけた。嬉しい。素直にそう思う。もっと、もっと僕を欲しがって。喉が渇くような感覚に、手に持っていたカクテルを一気に飲み干す。カッとアルコールが胸を焼き、幸福感に酩酊してくらくらとする。

「大丈夫か?」
 彼はいつの間に背後に立っていたのだろう。
 何度目かの週末のパーティは続いていて、今夜もタイラーはバーテンダーとして働いているはずだった。なのに、この人だかりのなか、正確に自分を見つけて酔いの心配をしてくれる。アルコールより彼のすべてに酔いそうだった。いや、実際酔っていたのかもしれない。膝に力が入らず、かくりと崩れ落ちそうになる。さっと差し出された手を取らなかったら、無様に倒れていたことだろう。

「寝室に行こう」
 ギャツビーを横抱きにしたタイラーを、周りは気にもとめなかった。ふたりはまるで見えない幽霊のように邸宅へ消えていった。主催者不在に慣れたパーティは、それでも夜が更けるまで続き、そのあとふたりに起こったことなど誰も気にしなかった。

──夢の中みたいだ。
 ぼんやりとした視界のなか、タイラーだけがはっきりと輪郭を持っている。彼だけが特別みたいだ。ほかのものは価値がないような気持ちになるほど。ゆらゆらとギャツビーを寝室へ運ぶ彼の足取りは軽く、馬鹿みたいだけれど、自分の質量までなくなったのだろうかと思った。
 ぼふ、とベッドに降ろされ、ジャケットや靴を脱がされたときもギャツビーは無防備だった。だって、タイラーは柔らかな表情で自分を見つめていて、夢見心地の状態は気持ちよくて、なんだか安心感があったのだ。

「眠い?」
「ん……ねむ、い」
「寝ちまえ。服緩めとくから」
「あ、たいら、行っちゃだめ……」
「どこも行かねえよ」
「うん、うん……」

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 覆いかぶさる睡魔に勝てず、ギャツビーは最後の返事をしてから寝息を立て始めた。安らかな寝顔。タイラーは眠るその人の衣類を緩め、苦しくないよう体勢を整えてから「はあ」とため息を吐く。手のひらが異様に熱かった。いや、身体じゅうどこもかしこも熱かった。
 タイラーは喧嘩とセックスが強く、また薬への耐性も強かった。それを知らないギャツビーが、なにやら怪しいものを自分に盛っているのに気づいたとき、いったい何を感じたか──悦びだ。「ジェイが俺を手に入れようと躍起になってる」と思うと勃起しそうになってしまう。

 ギャツビーは知らないことだが、タイラーはずっと前から彼を知っていた。精神病院で生まれたときから、母親と呼ばれる女に繰り返し言われたのだ。「あなたの父親はジェイ・ギャツビー」だと。それは、彼女の愛読書に出てくる登場人物の名前だったが、タイラーは信じた。
 孤児院に出されてからも、母の愛読書をページが擦り切れるほど繰り返し読み、父親の名前を指でなぞり、自分はいつかきっと本物の彼に出会うだろうと確信していた。これはもう、親に対する感情ではなかった。焦がれ、切なく、甘ったるい憧憬。まるで恋だった。タイラーは、ギャツビーに恋い焦がれた。そして、とうとう出会ってしまった。

──もう離さない。
──俺の、俺だけのジェイ。

 ポケットから薬瓶を取り出す。
 ミニチュアの香水瓶みたいな可愛らしくて綺麗なガラスの中身は空だった。今夜、最後の一滴をカクテルに仕込んだのだ。奇しくもギャツビーが使っていたのと同じ薬は、いまごろ彼の体内のすみずみまで巡って、もう取り返しのつかない効き目を発揮していることだろう。「否が応でも夢中になる」と売り手の男は言っていたが、薬がなくてもきっと、ギャツビーはタイラーを愛しただろう。

「だって、ジェイは俺を愛するようにできてるんだからな」
 それは盲信者の戯言のように寝室の天井へ響いた。
 擦り切れるまで読んだ本で、ジェイ・ギャツビーが誰を愛したのかなんてもう忘れてしまった。俺の父親、恋人、そして俺自身。ようやく彼が手に入るのであれば、そのほかのことはどうでもいい。美しい寝顔の、伏せられたまつ毛がふるりと揺れる。夢の中でも俺を思っていればいい。
 タイラーは、ギャツビーの眠るベッドに乗ると、そっと隣に自身の身体を横たえた。彼が目覚めたとき、いちばん最初にあの青い瞳に映りたかった。ふ、と寝息が頬をかすめて、下腹が熱くなる。まだ触れられない。触れたくない。ギャツビーがあの薬瓶を空にしたとき、やっと自分は彼のものとなるのだから。

「それまで、楽しみだなあ……」
 はらりと落ちた金糸の髪を指の背ですくいながら、タイラーはくふくふと笑った。
 それはそれは、無邪気な子どものように。