WHAT MAKE A GOOD MEN? - 1/11

//Evil has a name.

 

「おれの本当の名前はオーガスト・ウォーカーじゃないっていったらどうする?」

 情事のあとが残るベッドの上で、オーガストはトニーにいたずらでも仕掛けるときのような、にやりとした顔で囁いた。ギリシャ彫刻のように整った顔が、途端に愛嬌のあるものに見える。

「何かと思えば。そんなの、いまさら」

 CIAという国家機関に務めるものならば、偽名のひとつやふたつ。いや、片手で数えるくらいでは足りないほど持っている人物もいるくらいだ。この後輩にも、何冊もの偽造パスポートを作って渡してきた。いまさら「本当の名前」などというものに価値を求めるトニーではなかった。

 なぜ、そんなことを? と問うと、「俺が死んだとき、ジョン・ドゥにならないよう、あなただけには知っていてもらいたいと思って」と返ってきた。

 不吉な物言い。
 ここのところ、オーガストは切羽詰ったような顔でトニーを抱くようになった。何かを思い詰めているような顔。暗殺や拷問も職務とする彼は、精神的に追い詰められてきた頃になると、無心でトニーを抱く。
 それは、犯すといっていいほど酷く激しいときもあれば、贖罪をもとめるように慎重な手つきでもって優しいときもあった。彼の中で、何か矛盾する感情が渦巻いているような。

「すこし休んだほうがいいんじゃないか? カウンセリングは受けてるのか?」
「はン、そんなものまやかしだ。それに、あなたといるときの方がずっと癒やされる……」

 不埒な指が、さっきまで彼自身を飲み込んでいた場所をまさぐってきた。今夜は優しい方だったが、まだ寝かせてもらえないらしい。「あっ」と声を上げるトニーの唇がふさがれる。

 息継ぎもさせないような激しいくちづけ。ぐちゅぐちゅと音を立てて残滓を掻き出すような手つき。
 オーガストのいきり勃ったペニスが、まだ口を開ききっていない後孔に突き立てられる。つきんと痛むそこで、彼の焦りを感じた。

「全部、まやかしだ……おれのやってきたことも……これからすることも……」

 彼が何かいったのを、トニーは上手く聞き取れなかった。呼吸ができない。酸素をもとめて水面を目指すように顔を上げようとすればするほど、オーガストはトニーの唇を追う。

──まるで溺死させようとする乱暴な腕。

 力の差ではけっして勝てない相手に、突然、ぞわりと恐怖が背筋をのぼる。容赦なく突き上げられると同時に、後孔がきゅううと締まった。
 オーガストの笑う気配。はっはっ、と合間に挟まる息継ぎに追いつかず、トニーはほとんど窒息寸前でくちづけに応えさせられる。
 とうとう、トニーの下腹が震え、目の前がちかちかと白んだ。窒息まぎわにおとずれた小さな死。射精をともなわないドライオーガズム。

 反射的にのけぞって、やっとトニーはオーガストの唇から開放された。そのとき、彼が耳元で何か囁いたのを、やはりトニーは上手く聞き取れなかった。全身を覆う疲労感から眠りに落ちてしまう。

「ねえ、トニー。おれの本当の名前はね、」

 ///

──オーガスト・ウォーカーの裏切りと死を知らされたとき、トニーは煙草を吸っていた。灰が足元に落ちたのも気づかないほど間が空いてから、妙に落ち着いた心境で、その事実を飲み込んだ。

「ジョン・ドゥになりたくないんじゃなかったのか?」

 いつかの情事で、彼の本当の名前を聞きそこねたことを思い出す。もしかしたら、資料を漁れば出てくるかもしれないそれ。
 しかし、トニーは知りたくなかった。知りたくもなかった。文字の羅列よりも、耳に馴染んだ音の方がしっくりときていた。

「まったく、僕が行ったら教えてくれるのかい」

 手の中の煙草はすっかり燃え尽きている。足元に、ぽつりぽつりと雨の後のような水が落ちているのに、トニーは気づかなかった。
 彼の死は公にならないだろうし、回収できなかったらしい亡骸も、過激な思想も、すべて闇に葬られてしまうだろう。それでも、オーガスト・ウォーカーという名前だけは残るだろう。CIAを裏切ったものとして。

 けれど、自分だけは覚えておこうと思っていた。

──オーガスト・ウォーカー。 
 
 トニー・メンデスを愛した男として。