//Introduction
「こんな話がある」
チェックポイントと呼ばれる地点に向かう車内で、運転をしながら同僚がオーガストに話しかけてくる。彼は早朝、迎えに来たときからよく喋る男だった。だが、任務に支障はないからとばかりにオーガストは適当に無視をしながら聞いていた。
──まだドイツが壁で東西に分かれていた頃、独身の女には西へ安全に亡命する夢のような手段があった。結婚だ。西の男を捕まえて、東の国からさようならというやつ。もちろん、世間体はよくない。愛を手段にした亡命なんてのは、冷たい目で見られたもんだ。
──とある東の女が西の男に惚れ込んだ。二人の男女はしだいに寄り添い、男は女にプロポーズを申し込んだ。女の答えはもちろんイエス。結婚式当日、教会で女は白いドレスに身を包み男を待った。参列者はいない。誰もが亡命目当ての穢れた式だと思っていた。そこへ遅れてやってきた男が扉を開けてこう言う。
──待たせたね、ハニー
──ほっとする女。しかし、次の瞬間、銃声。
──男は蜂の巣になり、女のドレスが血に染まる。
──ああ、なんてこと。
──男は西側のスパイだった。政府機関に務める東の女を利用して軍事機密を調べていたのだ。あわれな女は未婚の未亡人。スパイ容疑で刑務所行き。
「さて、この話の教訓は何か」
同僚が路肩に停車しながら聞いてくる。ダッシュボードの時計を見た。チェックポイント前、午前九時十四分。ターゲットが出現するまであと一分を切っていた。
「さあ。それより時間だ」
急いで車から降りようとするオーガストに、同僚は肩をすくめて言った。
「本当の愛なんて存在しないってことさ」
「そうか。だろうな」
九時十五分。ターゲットが自宅から出てくる。時間通り。オーガストはサングラスに帽子とパーカーのフードを被り、ジョギングのランナーを装った格好をしていた。ターゲットの男の横を通り過ぎ、しばらく道なりに走る。日差しは眩しいが、風が冷たくて気持ちのいい天気だった。毎日徒歩で通勤する男の気持ちも分からなくはない。いつもどおりの平和な朝の光景。
だが、油断は禁物だ。ここに、一本の細い路地があった。大通りからは建物が邪魔をして死角になり、通勤通学の時間帯だというのに、信号の関係でほんの一、二分だけ空白になったように人通りが途切れるときがある。オーガストはその路地のすこし端でしゃがみ込み、靴紐を結ぶような格好でそのときを待った。しばらく待つと、男がやって来る。
「やあ、どうしたんだい」
──おやさしいことで。
彼は、道の端でしゃがみ込んだままのオーガストに声をかけてきた。狙い通り。返事をするふりで顔を上げると、すばやく男の腹に向かって仕込んでいた注射針を刺す。これも狙い通り。「えっ」という空気を吐いた音が聞こえたかと思うと、男は突然倒れ、発作を起こしたように苦しみだす。オーガストはすぐにちいさな注射器をしまって走り出す。あくまでも冷静に。ジョギングをしていてとっくにその現場を通り過ぎてしまったランナーのように。
注射器の中身は、心臓発作を偽装するときに使う薬品だ。検死をされてもいっさい残らないようなものを使っている。男は糖尿病を患っており、毎日腹にインスリンを注射しているので、針の跡も目立たないだろう。そのための特注の注射器だった。
チェックポイントに到着する。停車していた車はすでにエンジンを掛けており、いつでも出発できるようになっている。オーガストは助手席のドアを開けてするりと車に乗り込んだ。
「首尾は」
「上々」
「オーケー、じゃあ帰宅だ」
今頃、あの路地ではパニックでも起きてるかもしれないが、知ったことではない。救急車、サイレン、担架で運ばれる男。病院にたどり着くまで息は持たない。すまない、仕事なんだ。季節の変わり目は心臓発作にご注意を、なんて。オーガストはパーカーのフードを下ろし、帽子を取った。ほんのすこし走っただけなのに、日差しと格好のせいでわずかに汗をかいていた。
チェックポイントから遠く離れ、信号待ちをしていると、近くに教会が見えた。午前十時を過ぎた頃だった。ちょうど挙式があったようで、白いタキシードと大輪のドレス姿をした新郎新婦が颯爽と教会の扉から出てきた。周りには二人を祝福せんと大勢の人だかりが出来ていた。ブーケトスを待っているのだろう。独身らしき女性がわらわらと階段の下に集い、それを周りの人々がスマホをかざしていまかいまかと待っている。花束は、赤や白の花々が遠目から見ても美しく、こぼれ落ちそうになりながら新婦の手の中でしゃらしゃらと輝いていた。
ふと、新婦が花束の中から一本の花を取り出して、新郎の胸のフラワーホールに挿す。ブーケ・ブートニアと呼ばれる儀式だろう。そういえば、ヨーロッパでは昔、男性がプロポーズの際に花束を贈った後、相手の女性がその花束から一本の花を抜いて男性の胸に挿すのを「イエス」の返事としていたそうだ。おれが胸に刺すのはナイフやら注射針やらばっかりなのにな、などと考えながらオーガストは二人を目で追ったが、ブーケトスが始まる前に信号が変わり、車はするすると発進していった。