//Part. one
オーガストは結婚を信じていなかった。
両親はいたって平凡な結婚生活を送っていた。しかし、父が亡くなったとき、葬儀に知らない女が来ていたのを母が睨みつけていたのを何故だか覚えている。たぶん、父の愛人だったのだろう。夫婦仲はよかったはずだが、父には秘密の恋人がいたというわけだ。もう成人していたオーガストは、そこでほんとうの愛など存在しないのだと知ったし、自分も愛など探すつもりはないだろうと思った。
「病めるときも、健やかなるときも、死が二人を分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」という誓いの言葉。CIAに入局したとき、オーガストは国と契りを結んだつもりだったが、それは一方的なものだったらしい。貞節を何度も裏切られ、誓いの言葉を破り捨て去られ、身も心も擦り切れるまで使い潰された果てがいまのオーガストだった。彼は疲弊していた。来る日も来る日も薄暗い仕事を任され、傷つき、苦しみ、自分は国さえも愛せないのか、ほんとうの愛など、やはりどこにもないのだと思っていた。
──トニー・メンデスと出会うまでは。
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その日は退職する職員とのお別れパーティがあった。バーの一部を貸し切りにして、ケーキを切り分け、老いて前線を退く彼との離別を惜しみ、来たる新しい未来を祝う。オーガストは、昔すこしだけ世話になった、というだけの縁でその席にいたが、正直すぐにでも帰りたくてしょうがなかった。長年の功績を称える金のメダルを掲げ、退職する彼がスピーチをしている最中だった。
「何十年と国のために働いて、あんなメダル一枚じゃあ浮かばれないな」
突然、後ろから話し掛けられた。ざわつく店内、マイクが近すぎてきんきんするスピーチのなかでも、すっと通るような、ちょっと高い男の声。振り向くと、ずいぶんとガタイのいい、無精髭とぼさぼさの髪の毛をした、それでいてきれいな顔の男がにやりと笑ってこっちを見ていた。
「死んだ人間にメダルはない」
男が眉をちょっとひそめるようにして言う。言いづらそうなことを言ってしまったが、君はどう思う。という顔だった。オーガストはそこに好感を持った。確かに。その通りだった。
「代わりに星になるだろう」
「名前もない星だ」
その、「名前もない」というときの顔がほんとうの悲痛を知っているようなものだったから、オーガストはさらに彼に好感を持った。自分も、同じ悲痛を知っている。任務で使い捨てられていった命たち、存在しなかったことにされた命たち、そういう痛みをどうしても飲み込めないでいる者同士だと分かった。
「トニー・メンデスだ」
「ウォーカーだ。オーガスト・ウォーカー。よろしく」
互いに名乗り、気づくと握手をしていた。こんなところで意気投合してしまった。スピーチもパーティもそっちのけで、二人はそっとその場を抜け出し、別のバーへと向かっていた。互いに抱えるものを持つ者同士、話をするのに、アルコールの必要な夜だったのだ。
三軒目のバーにたどり着いた頃、オーガストは心のなかに溜め込んでいたものを一気に吐き出すように、トニーへと自身の話をしていた。自分の仕事は荒っぽいものだと濁してはいたが、彼は薄々気づいただろう。この手が血に塗れていることを。安っぽいドラマや映画なんかで葛藤する場面のような、「おれの手についた血は落ちない」なんて台詞を言いたいわけじゃなかったが、オーガストは自分の手のひらを見つめてからトニーに言った。
「あんたの手は技術屋の手だろう。命を救う手だ。おれのは奪うだけ。ふふ」
皮肉るように嘲笑って言った台詞を、しかし、トニーは笑わなかった。もうだいぶアルコールの入った、すこしとろりとした目をきゅっと引き締めて、「そんなことはない。君たちが、君がこの国を守ってくれているから、ぼくは安心して夜、眠れるんだ」と言ってのけた。それが真剣そのもので、ほんとうに、心の底からの言葉だったので、オーガストはもうだめだった。それで、恋に落ちた。
彼の腕を引いてバーを出た。トニーは何が起こっているのかふわふわとしながら確かめるようにオーガストの顔を覗き込んでくる。そのとき、はじめてブラウンの瞳の片方にちょっとブルーがかかっているのに気づいた。綺麗な瞳だった。路地裏でキスをした。唇同士をぶつけるような、あんまりにも下手なキスだった。
「CIAのハンマーってのは、キスの仕方もハンマーみたいなんだな」
くすくすと笑うトニーが嫌がらないのをいいことにもう一度。今度はそうっと、唇の輪郭が触れるか触れないかくらいのやさしさでもって。ただ皮膚同士を合わせるだけのキスなのに、この世の何よりも気持ちがよかった。オーガストは、もう待てなかった。
「うちが近いんだ」
「へえ。ずいぶんと性急な誘い方だな」
「あんただって欲しいだろう」
「ふふ」
酔った足取りで、二人はオーガストの自宅へと向かった。「男を持ち帰るなんてはじめてだ」「ぼくだって、お持ち帰りされるのは、はじめてだ」なんて話しながら。途中とちゅうで肩がぶつかり合い、トニーの長い髪が揺れる。散々飲んだアルコールと、彼の吸っていた煙草の匂いがした。夜風が二人の間をすり抜けていくのを、凍えないようにと寄り添いながら歩いた。
自宅に着いたのは、深夜の二時を回るかという時間だったが、二人は時計なんて見ている暇はなかった。最低限の家具しかないなか、かろうじて男二人が寝転がれるベッドになだれ込み、互いの服を脱がせ合う。合間にキスを挟み、だんだんとディープなものになっていくそれに身を任せる。まるで互いの呼吸を循環させるみたいに夢中になって相手の唇を貪っていた。こんなキスは生まれてはじめてだった。ベルトを抜いて、スラックスを床に捨てる。下着と靴下だけの間抜けな格好になって、オーガストはトニーを押し倒した。
「男ははじめてなんだ」
「ぼくだってはじめてだ」
二人はくすくすと笑い合いながら愛撫を始めた。キスの延長みたいな愛撫。いまどきティーンネイジャーの方がもっと上手くやるんじゃないかと思うような、酷くぎこちないものだった。勝手がわからないのに、気持ちばかりが逸ってつんのめりそうになる。女となだれ込む夜は何度かあったし、いつだって完全に理性が勝っていてこんなに焦ったことはなかったというのに。オーガストは思わずトニーの肩を噛んだ。どうしたらいいのか分からない気持ちが昇華されるような気がした。トニーは「あっ」と声を上げたが、痛がる様子ではなかった。もどかしくてもどかしくてしょうがない気持ちを、やっと受け止められたという安堵の声だった。
股の間にぶら下がったものは、役に立たなかった。そもそも二人とも飲み過ぎていた。互いに「馬鹿みたいだ」と笑い合った。
「おれたち、セックスするためにここまで来たのに!」
「はは、君は靴下も脱がずに僕を押し倒してるのに」
間抜けな光景だった。二人は深夜にもかかわらず、腹の底から笑った。トニーなんか笑い過ぎてちょっと涙を流していた。ひとしきり笑い合ってから、オーガストは頭を抱えて唸った。
「あんたが欲しい。あんたが足りないんだ、もっともっと欲しい」
トニーは、オーガストの頭を引き寄せて胸の上に乗せた。とくとくと脈打つ心臓の音。
「大丈夫、ここにいる。焦らないでいいから、すきにしてくれ」
とろりとこちらを覗くブラウンの瞳が、きらきらと涙をこぼしていた。うつくしい顔だった。こんな、年も上で、ぼさぼさの髪に無精髭を生やした男だというのに、顔も心もうつくしい人だった。すべてが愛おしかった。オーガストはすきにした。トニーの全身にゆるく噛みついて、跡を残していった。動物の捕食みたいだった。性欲を通り越して、食欲にでもなってしまったのではないかと思うくらい、トニーの全身を甘噛みし続けた。彼はその間、ずっとくすぐったそうに微笑ったり、感じるところで声を漏らしたりした。きれいだった。自分の所有印で埋め尽くされる身体が、笑顔が、感じ入る表情が。
オーガストは、噛んだところから一つになれたらいいのに、と思った。メスの身体にくっついて同化してしまうオスの寄生魚みたいに。けれど、二人は人間だったので、どんなに噛んでも噛み跡が増えるだけだった。トニーの身体にはいくつもの噛み跡が散りばめられ、ちょっとした暴行の跡みたいだった。何故、自分は愛する人にこんな醜い跡を残してしまうのだろう。もっと穏やかなかたちで愛を昇華したかった。
それでも、トニーはオーガストの行為を許した。彼の、薄暗い部分を散々聞いていたからかもしれない。この真っ直ぐで痛々しいほどに疲弊した男を救いたかったのかもしれない。トニーのなかにも愛おしさは芽生えていた。オーガストは、表情を隠すような口髭のわりに、目に愛嬌のある男だった。可愛い、といえるかもしれない。空を写したような青い瞳の片方に、ほんのり自分と同じブラウンを見つけたせいかもしれない。放っておけなくなってしまったのだ。
噛み跡をじっくりと残したオーガストは、満足したのかトニーの隣へ横たわった。
「こんな夜もあるんだな」
「これも、はじめて?」
「もちろん」
あなたとの「はじめて」がいっぱいだ。これからも、たくさん「はじめて」があるのだと思うと、オーガストは嬉しくなってにやける顔を抑えられなかった。「はじめての夜」「はじめてのキス」「はじめての……」
「そうだ、あなたに言っていなかった。愛してるって」
「僕も聞かなかった。もうとっくに言われてると思ってた」
あまりにも展開の早い恋に、二人はいろいろなものを置いてきてしまった。けれど、ひとつずつ拾っていけばいいのだ。トニーがオーガストの髪をくしゃりと撫でて、胸元に抱きとめるような格好でシーツを引き上げた。母親がやる、お休みの時間みたいだった。
「今夜は眠ろう、オーガスト」
いつの間にか眠気の帳が二人の上に降りてきていた。たまに不眠症の薬に頼ることもあるほどだったオーガストだが、何故だか、今夜はよく眠れるかもしれないと思った。いや、もうすでに眠りのなかにいるような心地だった。トニーの体温はあたたかく、居心地がよかった。夜の帳が完全に降りてきた頃、寝室には二人分の寝息が、すよすよと漂っていた。
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オーガストの部屋は殺風景で、必要最低限のものしか置いていないようだった。ベッド、デスクとセットの椅子が二脚、テレビ、ノートパソコン。キッチンは悲惨だった。調理器具がほとんど何もない。モデルルームをそのまま移動してきただけのような、住んでいる人間の匂いがあまりしないような部屋だった。まるで、オーガスト・ウォーカーという名の武器をしまっておくための倉庫。
翌朝、先に目覚めたトニーが何か飲もうと冷蔵庫を開けると、そこにはミネラルウォーターと銃と弾薬しか入っていなかった。冷蔵庫の殺風景さが、部屋の光景と重なって、胸がつきんと痛む。トニーがミネラルウォーターを取り出して扉を閉めると、真後ろに気配がした。オーガストが立っていた。
「見たでしょう」
「何を」
「銃を」
彼はいまにも泣き出しそうな、悪いものを隠しているのを見つかった子どものような顔をしてそこに立っていた。
「怖いと思った?」
「まさか。食べるものが何もないなって思っていたよ」
トニーは何でもないことのように言った。ほんとうに怖くはなかった。銃が怖くてオーガストと付き合えるわけがないと思っていた。彼は銃よりもおそろしい武器だ。しかし、人間だ。あたたかくて、自分の正義感に真っ直ぐすぎるくらいまっとうな、それでいて脆くていまにも壊れてしまいそうな。
「朝食を食べに行こうか、オーガスト」
キッチンの窓から差す朝日で、トニーの髪がきらきらと輝いていた。オーガストは、この人はもしかしておれのために天から使わされたのではないかと一瞬思った。それくらいうつくしくて神聖な光景だった。ほんとうの愛があるならば、きっとトニーのかたちをしていると思った。
二人は急いで着替えて出掛けた。今日が休みでないことが惜しかった。朝食を終えてから、仕事で別れるのがつらいと言うオーガストに、「夕方、局に来てくれたら今度はうちに招待するよ」とトニーが誘った。次の約束、次の逢瀬、次のチャンス。オーガストは二つ返事で迎えに行くと言い、二人はしばしの別れを惜しんだ。
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まだ出会ったばかりだというのに、二人の関係は、まるでパズルのピースがぴったりとはまるように、お互いしっくりときていた。いままでどこに隠れていたのだろう、とオーガストは思ったが、仕事ではかなり世話になっていることがわかった。トニーは、人質救出の専門家であると同時に、技術職であり、偽装工作のエキスパートなのだと知った。任務で使う偽造パスポートのほとんどが彼の仕事だと知ったときには、「おれたち、知らず知らずのうちに繋がっていたんですね」と嬉しくなった。
その夜は、テイクアウトのチャイニーズを買った。途中、ドラッグストアにも寄って今夜いるであろうものを二つ三つ買う間、トニーは車内でひっきりなしに煙草を吸っていた。二人はトニーの自宅で食事をとった。彼の自宅はものがごちゃごちゃとしていて、オーガストの部屋とは正反対だった。「散らかっていてすまない」と言われたが、何故だか落ち着く空間だった。本棚からあぶれた美術書、画集。何故か一本だけ床に落ちているビリジアンブルーの絵の具。レトロ趣味な家具や、ビールケースに乗せられたちいさなテレビ。彼のものに囲まれている。それだけでほっとするような、安心感があった。
二人は食事の後に、すこしだけウイスキーを飲んだ。ぽつりぽつりと話をしていたが、夜が深まるにつれ、会話はすくなくなっていった。この後に待ち構えるものを、二人とも感じ取っていた。とうとう沈黙が間にはさまったとき、トニーが唐突に「バスルームはそっちだから」と言った。
「えっ」
「浴びるだろう? シャワー」
何のことか一瞬わからなかった。トニーはそっぽを向いていた。アルコールのせいでなく、耳が赤く染まっていた。オーガストはウイスキーの入っているグラスを置き、しずかに彼の隣へ座った。「二人で浴びましょう」と言って、トニーを立たせ、バスルームへと向かった。彼は素直に従った。まるで、こうなることを待っていたみたいに。
バスルームは狭かった。あたりまえだ、ガタイのいい男二人が一緒にシャワーを浴びているのだから。浴槽の底で滑らないように気をつけながら、オーガストはトニーの身体を引き寄せてくちづけた。トニーが応えるように口を開いて、オーガストの舌を受け入れる。歯列をなぞり、上顎の奥をぞろりと舐めると、トニーは大きな背をひくりとふるわせて逃げようとした。それを捕まえ、もっともっとと口内を貪る。呼吸が出来なくなるくらい、ひっきりなしに唇を合わせた。最後に、下唇を軽く噛んで離れると、「噛むのがすきなんだな」と言われた。
シャワーを浴びながら、トニーはオーガストの身体を観察していた。もう塞がった後の傷跡がたくさんついていた。銃創や切りつけられたような跡。彼の仕事を思うとすこしばかり悲しくなった。やさしい男だから、心はもっと傷ついているかもしれないと。自分がその傷を塞いでやることが出来るのならば、よろこんでそうしよう、と。
無意識に傷跡に触れているトニーを、オーガストは愛おしいものを見つめる目で見守った。言葉にされなくても、彼の考えていることが分かる気がした。やさしい人。きっと、おれのことで心を痛めているのだ。
トニーがそうっとオーガストの肩に残る銃創へくちづけた。舐めたら治るかもしれないという子どもじみた発想で、ちょっとだけ出した舌で触ってみる。傷跡のあるところだけ皮膚がわずかに周りよりも盛り上がっていて、おうとつが何となくわかった。
「あまり煽らないでください」
オーガストに言われて自分が何をしたのか気づいたトニーは、顔を真っ赤にしてうつむいた。恥ずかしがる彼を抱きしめ、オーガストはトニーの手を取る。「触って」と自らのペニスに誘導すると、トニーは素直にそれに触れた。他人のものに触るのははじめてだったので、もうすでに硬くなりはじめているそれに驚いた。オーガストを見ると、「続きは?」という顔でその先を促していたので、自分がするときのようにそれを握り込んでそうっと扱いた。シャワーの水音に隠れて、くちゅくちゅと先走りの擦れる濡れた音がする。完全に勃起したペニスは、あつくて、両手を使ってしばらく扱いていると、オーガストが「うっ」と腹筋をふるわせて突然射精した。びっくりして手を離すと、吐き出された精子が湯に流されていく。
「ガキみたいに興奮してる」
彼のペニスはまだ頭をもたげたままだった。「続きはベッドで」と、ふたりは髪も乾かさずにバスルームを抜け出した。
トニーの身体は素晴らしかった。
オーガストが手で、唇で愛撫すると、とてもいい反応をしてくれた。デスクワークがメインの割に鍛えられた身体は、快感に身を捩るたび芸術的な陰影を見せる。薄い腹筋を舐めて、おうとつを一つひとつなぞっていく。トニーはくすぐったさと快感の間で逃げようともがくが、オーガストはもちろん逃さないと強く彼の腰を抱きしめた。肩幅の広いのに対して、腰は華奢に見えるほど細い。そこがセクシーで素敵だ、と何度も腰骨を甘噛みした。びくりとふるえる身体に気を良くして、オーガストは何時間でも愛撫をしていたいと思った。まだ性器に触れてすらいないというのに、トニーのペニスはたらたらと先走りを垂らして、いまにも弾けそうなほど屹立していた。
「……下、触ってくれ」
消え入りそうなほどちいさな声で、トニーが囁いた。限界だったらしい。オーガストは胸をときめかせながら愛しい人のそれにやさしく触れた。ぬるぬると滑る先端をくるくると弄り回す。強い刺激に、鼻にかかったような高い声が上がった。彼がバスルームでしてくれたように扱いてやると、びゅく、とちいさく射精した。かわいらしいいきかただな、とオーガストは思って、つい親指についた精液をねっとりと舐った。トニーが「やめろ」だの「汚い」だの言っていたが、気にせず指についたものをぜんぶ舐め取る。真っ赤になって「信じられない」と言う彼を上目遣いで見上げながら、「美味しかったですよ」ととどめを刺すと、トニーはもうそっぽを向いて顔を覆ってしまった。
「男がはじめてだなんて嘘だ」
「嘘じゃないです」
「だって、こんなにどきどきさせられて……身が持たない……」
顔を覆った指の間から見える目が涙ぐんでいた。身が持たないのはこっちの台詞だ、とオーガストは思った。トニーはとにかく煽るのが上手すぎる。これが意識してやっているのでないのだから、よけいにタチが悪い。オーガストは最初、最後まで繋がるかどうかはトニーの反応次第で決めようと考えていた。セックスといっても、挿入がすべてではない。男同士のやり方は心得ていたが、愛撫と互いに慰め合うことで満足できれば、今夜はそれだけでもいいと思っていた。しかし、トニーの反応を見ていたら、最後までしてみたいと強く願ってしまった。つい、自分のペニスをトニーの腰に押しつけてしまう。それで気づいたのか、トニーもこの後に待つ行為のことを思い出したようだった。
「……君が望むなら」と彼は言った。
オーガストは望んでいたので、トニーの下腹部にキスを落とすことで答えた。ドラッグストアで買ったコンドームと潤滑剤を床から拾い上げ、オーガストは中指にゴムをはめた。潤滑剤をたっぷりとひねり出し、すこしてのひらで温めてからすくうと、トニーの後孔に塗り込めていった。くるくるとマッサージするようにして安心させてやると、そこはつぷりと一本目の指を迎え入れた。とても狭い。中指を浅いところで出し入れして様子を見ると、トニーは額に腕をやって、眩しいものでも見るような目つきでこちらを見下ろしていた。
「なんだか変な感じだ」
気持ちいいところを探るのは後回しで、とにかく慣らすことに集中した。二本目の指はすこしきつかった。「力を抜いて」と言っても、トニーは「わからない」としか答えられなかった。そこだけ別の生き物のように、自分のコントロールの管轄外になったみたいに思えるという。痛がらないのをよしとして、オーガストは三本目の指もゆっくり、じわじわと入れていった。トニーは苦しそうだった。「痛くないけど、おかしい感じ」だと言って、指がなかでうごめくたびに「ん」とか「あ」とかちいさく声を漏らしていた。くるりくるりと三本の指を同時に動かすと、ぷちゅ、という空気の音が漏れて、トニーはさらに顔を赤くした。後孔がきゅう、とうごめき、指が食い締められる。
「トニー、力を抜いて……大丈夫、おれに任せて……」
「うう、へん、オーガスト、へんになる……」
「大丈夫、深呼吸して」
始終「へんだ」「おかしくなる」と言っていたトニーは、素質があったのかもしれない。何故なら、オーガストが無意識に刺激していた前立腺への愛撫を敏感に感じ取っていたから。ぴり、ぴり、と腰の下から何かしらの電気信号が送られてくるような感覚。オーガストがなかで指をばらばらに動かすと、それは一層強く感じられた。
「いい、オーガスト、もう、いいから……!」
「でも、慣らさないと、」
「いい、から、たのむ……」
ちいさな懇願だった。けれど、オーガストは聞き逃すことなくトニーの願いを受け止めた。なかで慣らしていた指を抜き取り、ゴムを捨て、自身のペニスに新しいものをつける。ほんとうのことを言うと、オーガストのものはトニーの恥ずかしがる姿を見てかなり限界だった。痛い思いをさせたくなくて我慢していたのに。彼はやっぱり煽るのが上手すぎる。「痛かったらすぐにやめますから」と念を押して(あるいは、自分に言い聞かせて)トニーの後孔に自身をあてがう。ぐっと腰を押し進めるが、なかなか先端が入ってくれない。トニーからくぐもった声が上がった。痛いのかと思って動きを止めると、「……手、」と返ってきた。
「手を、握っていてくれないか……」
消え入りそうなほどちいさな声だった。その瞬間、オーガストは体中が熱を帯びてしまったように錯覚した。不安そうに見上げてくるブラウンの瞳。なかで泳げそうなほど潤んでいる。彼をぜったい大事にしよう。どんな不安からも守ろう。そう思わせる何かがあった。オーガストは「ええ、ええ。もちろん!」と答えてトニーの手に自分の指を絡めた。ほっとするため息。そのおかげで力が抜けたのか、次に腰を進めると、ようやく先端が飲み込まれていった。しかし、はじめての挿入にはどうしても痛みがつきまとうもので、トニーは呻いてそれを受け入れた。
すこしでも気を紛らわせてあげたい。と、オーガストは目の前にあるトニーの乳房にくちづけた。乳首を舌で捏ね回し、甘噛みし、吸い上げる。女にするような愛撫だったが、トニーはいい反応をして喘いだ。腰を進める。先端が入ってしまえば、あとはずるずると蠕動しながら飲み込まれていき、とうとうオーガストのペニスはすっかりトニーのなかに収まってしまった。
「ああ、」と同時にため息が出た。とうとう繋がったことに対する感嘆の声だった。
「オーガスト、オーガスト」
「ああ、ここにいるよ、トニー」
トニーはオーガストの名前を何度も呼んでいた。下腹がゆっくりとうごめき、きゅん、きゅん、と無意識に彼のものを食んでいた。オーガストはトニーの手に絡めていた指を外し、彼の両頬をはさむようにしてそうっと触れた。「繋がってる」「嘘みたいだ」と泣きそうな顔をするトニーにキスの嵐を贈る。この短い間で分かったが、彼はキスが好きみたいだ。と、オーガストは感じた。キスをすると嬉しそうに目を細めて、唇がほかん、と半開きになるのだ。そこがたまらなく可愛らしくて、よけいにくちづけたくなる。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。そうして、夜の帳の向こうで、永遠に繋がっていたい。
ゆるやかな心地よさが二人の間にただよっていた。けれど、男の性は正直なもので、オーガストの腰は緩慢に揺れ動き始めていた。くっ、くっ、とほんのわずかに動かされる内部への刺激に、トニーの表情が変わる。キスを気持ちいいと感じて受け入れているときのような。目を細め、唇を半開きにさせて。何かを感じ取ろうとしている。してくれている。オーガストは、ゆっくり、ゆっくりとトニーの快感を探るように腰を動かした。
ぐっ、と腹の方に向けて押し上げるように動かした瞬間、それは訪れた。
「ああっ」
トニーの嬌声。前立腺を押されたことによる快感だった。ここが気持ちいいところなんだな、と、オーガストは念入りにそこを刺激して動く。律動のたびにトニーは艶めかしい声を上げてよがった。「おかしい」「そこ、へんだ」と言って逃れようとする。それを追ってさらに深く進む。トニーが喘ぐ。動きがだんだんと速くなっていき、呼吸も荒くなっていく。
「ん、ああっ、オーガスト、やだ、何か」
「何かくる、オーガスト」
「だめ、オーガスト、ああっ、」
拒絶の言葉も聞いていられなかった。オーガストは動きに夢中になっていた。気持ちいい。腰を引くたびにトニーのなかが自身に絡みつくようについてきて、入れると、もう離さないでとばかりに締めてくる。ばちゅ、ばちゅ、と大きな水音が部屋に響き、トニーの嬌声と交わって消えていく。ひっきりなしに上がっていた彼の声が、だんだんと力の弱いものになっていき、喘ぎ声が短くなり。最後の「あっ」と息を吐くように出た声と同時に、トニーは射精していた。それでもまだ足りなかったオーガストは、しばらく律動を続け、なかでいった。コンドーム越しにでも分かるほど強く叩きつけられた精液で、トニーはびくりと最後にふるえた。
「自分が自分でなくなったみたいだった……」と語るのはトニー。
「最高にしあわせな時間だった」と語るのはオーガストだった。
二人は、事後に呼吸が整うまで、くったりと胸を寄せて余韻に浸った。はじめてのセックスは素晴らしかった。まるで世界がひっくり返ったようだった。「だめだって、言ったのに……」とふてくされるトニーの眉間のしわまで可愛らしく見えてくる。
「ほんとうにだめだった? もうしない?」
オーガストが意地悪く上目遣いで聞くと、トニーは顔を腕で隠しながらちいさな声で「嘘。よかった。する」と言った。それが嬉しくて、オーガストはトニーに噛みつくようなキスをした。
//
二人は蜜月のようなときを過ごした。
周りに関係をほのめかしはしなかったが、ずいぶんと仲のいい先輩後輩だと思われていたことだろう。オーガストはCIAの本局に寄ることがあれば、必ずトニーのもとを訪れたし、トニーもまたオーガストの突然の訪問を内心でひっそりと喜んだ。
オーガストがトニーの自宅に泊まることが増え、何度も夜を過ごすうちに、彼の私物がトニーの部屋に増えていった。最初は歯ブラシ。次に髭剃り用の電気シェーバー。スウェットにシャツが何枚かとジャケット、スラックスなどの着替えがワンセット。ネクタイはトニーのものを借りて朝出かけることもあったが、人に指摘されたら困るから、と二本、新しいものを買った。はじめての贈り物だった。自然と、トニーの家から出勤することが多くなっていった。
「まるで同棲しているみたいで嬉しい」
「まるで、じゃなくてもう半同棲生活だ」
オーガストが無邪気に笑って言うのを、トニーはあきれるような顔をして言い返した。オーガストの部屋の冷蔵庫は、もう電源を切っていた。洗面用具を移動したせいでバスルームはほとんど空になった。仮眠と、着替えを取りに行くだけの空間になりつつあった。「ほんとうに倉庫みたいになったな」すこし悲しそうな顔でトニーが言うのを、「いっそ引っ越しましょうか?」と冗談で言ってごまかした(半分以上、冗談ではなかったが)。
オーガストは、はじめて穏やかな日々を過ごした。トニーは自分をやさしく包み込んでくれる毛布のような存在だった。任務で荒んだ日などは会わないようにしていたのに、どうしてだかそういうときにかぎってトニーはオーガストのもとを訪れ、「大丈夫だ」と囁いてくれた。手酷く抱いて自分のなかに溜まった澱を吐き出すような行為もした。けれど、トニーは許してくれた。「つらいのならば一緒に逃げよう」とまで言ってくれた。オーガストは、自分がこの薄暗い生き方以外出来ると思っていなかったので、トニーに出会ってはじめて、新しい道もあるのだと気づかされた。青天の霹靂だった。
トニーが笑うと嬉しくなり、自分にも温かい心が残っていることに安堵した。トニーの心臓の音を聞いて、今夜も彼を守ることが出来たと安眠できた。トニーが自分を信じていてくれるから、もう何もつらいことなどない。
遠い昔に諦めた、ほんとうの愛がそこにあった。「病めるときも、健やかなるときも、死が二人を分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」というあれだ。おそらく、おれの一生でいっとう愛おしい人。おれの愛する最初で最後、唯一の人。おれの安らぎ、平穏そのもの。オーガストは、このままずっと、穏やかに彼と過ごしていけたらいいと、思っていた。