//Part. two
──トニーが死んだ。
──いや、違う。待ってくれ、嘘だ。
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トニーからは、どうしても自分が出ていかなければならない任務だと聞かされていた。
外交官であり、とあるテロリスト組織の創設者でもある夫を持つ妻と子どもたちがいた。彼らが暴力を受けていて、夫から離れたがっているというのを知ったCIAは、夫についての情報を提供するのと引き換えに、家族らを亡命させると約束した。
「彼らの生存率を上げるためにはどうしても必要な人的配置なんだ」と、トニーは苦笑していた。久々の現場だったからだろう。オーガストが不安に思ってなんとか配置を変えてもらえないかと聞いてみたが、「大丈夫、みんな協力してくれる。計画は何度も見直したし。いつもの救出任務と変わりない」と言って彼は出ていった。だが、蓋を開けてみれば「必要な犠牲」の間違いだった。彼は帰ってこなかった。
妻と子どもたちは、交通事故での死亡を装って国外に逃れた。空港で監視をしていた職員からの「無事に飛行機で国を出た」との連絡は、オーガストをほっとさせた。ぬかりなく計画は進んでいた。あとは、アメリカに着いた彼らをセーフハウスへと導き、証言を取って書類を用意するだけだった。
しかし、アメリカに到着したチームは消えた。
CIAの内部に、そのテロリスト組織に内通するスパイが潜んでいたのだ。
まさか内部の人間が裏切っているとは思わなかったチームの人間は、ばらばらになって一人、また一人と消されていった。テロリスト組織をまとめあげる夫の手腕だ。彼も馬鹿じゃあなかった。交通事故で死亡したと聞かされた後で、内通者に証言や亡命のことを知らされ、迅速に行動を起こしたのだ。このまま証人である家族も消されるのは時間の問題だった。だが、「必ず生きて亡命させる」と彼らを守りたい一心だったトニーは、内部にスパイがいると気づいたときに、誰にも知られない場所に家族を隠した。密かに、トニーたった一人だけが知る秘密の場所に。そうして、その秘密を守るために、彼は死んだ。捕まり、居場所を吐くまで拷問されたうえで殺された。らしい。
──報告書は無味乾燥だ。
オーガストは、事がすべて終わってからその報告を聞いた。彼自身、別の任務であちこちを飛び回っていたせいで、出国の報告を聞いただけで安心してしまったのだ。しかし、いまになって思えば、そんな任務など放り出して、トニーのもとへと駆けつければよかったのだ。CIAだって愚図じゃあない。トニーが捕まったのは分かっていた。だが、内通者がいると分かった時点で、情報の流出は最小限に抑えられており、オーガストには知るすべがなかったのだった。
──彼は、吐かなかったのだろうな。
もちろん、吐かなかった。だから、消えた家族の行方探しは難航を極め、慎重に行われた。内部に捜査の手が入り、内通者を探りながらの捜索となった。CIAが先か、内通者が見つけるのが先か、と戦々恐々とした状況だったが、最後はCIAが勝った。内通者を突き止めた後で、飛行場近くにある関税を通る前のコンテナから無事に家族を救出したのだった。そこは、外交特権を持つ夫が唯一手を出せない場所だった。内通者からテロリストの夫への通話記録も取れ、あっぱれ、悪は一網打尽となったのだった。
──さすが、あなたは誰よりも優秀だ。
事後に報告書で眺めてみれば、なんとも胸の熱くなる会心の救出劇だ。まさにドラマや映画にでもなるんじゃないかという。だが、犠牲になった人間は忘れ去られ、存在ごとなかったことにされる。トニーもそうだった。翌日の新聞には、彼らの名は載らない。ひっそりと処理され、局入り口の壁にぽつりぽつりと星が増えるだけだ。
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トニー・メンデスの葬儀はしめやかに行われた。小雨の降る、薄暗い天気だった。オーガストは、傘も差さずに、人を避けるように墓地の隅に佇んでいた。トニーは事故死したことになっていた。遠くに見える彼の家族や友人たちだろう人だかりを眺めながら、ぼんやりとしていた。遺体の顔は見えなかった。棺の窓が閉まったままだったのだ。しかし、それでいいと思った。近寄りたくなかった。
彼の笑顔を思い出そうとして失敗した。苦笑して自分を説得するトニーの顔すら思い出せないのに、拷問を受けて変わり果てたであろう顔を見てしまったら最後、ずっとその顔がつきまとうだろうと思った。彼にはきれいな顔のままでいて欲しい。思い出のなかのトニーは、いまはまだ薄ぼんやりとしか見えてこないが、反芻するうちにきっとあの笑顔を見せてくれる。「大丈夫、オーガスト。大丈夫だから」と言って。
「……大丈夫じゃありませんよ」
オーガストは強がるように唇の端を上げようとして、口の中に水が入るのを感じた。雨で薄まった涙の味。こんなもの、何の役にも立たない。
──おれにはまだ仕事が残っている。
しとしとと降り続ける雨のなか、オーガストは墓地に背を向けて歩き出した。
拘束されていた内通者が死んだ。獄中でシーツを縄状にして首を吊っていたのを、朝になって発見された。例のテロリストの夫も事故死した。急カーブを曲がりきれずに車が転落したのだ。彼らは裁判に掛けられるのを待たず、神によって裁かれたのだろうか。否、すべて上からの指示でオーガストが仕組んだ。いつもの薄暗い仕事だった。
「ご苦労だった」とおざなりにねぎらいの言葉を掛けてくる上司の言葉は、すべて耳を通り抜けていった。上司が去っても、オーガストはただそこに立っているだけの存在になっていた。事件の後片付けともいえる暗殺任務を終えた彼は、いつものように報告をして、いつものように自分は価値のある仕事をしたのだと思いながら、この仕事につきもののカウンセリングで、どう平静を装うかを考えていた。仕事のついでとはいえ、復讐を遂げたというのに、心はまったく穏やかさを忘れてしまっていた。灯った火が消えないような感覚。何かが自分の内側で燃え続けていた。
トニーとの関係は、職場の誰も知ることがなかった。それは、彼が恥ずかしがって言わなかったのもあるし、お互い仕事上の様々なしがらみから相手を守ろうとしてのことだった。彼の家にあった自分の痕跡は、事を進める前にすべて消してきた。仲のいい先輩と後輩。表向きには、ただそれだけの関係に見せていた。トニーの同僚のマリノフや上司のオドネルあたりは気づいていたかもしれないが、彼らは表立って二人の関係をほのめかすような真似はしなかった。ありがたかった。業務上必要なカウンセリング以上のものはいらなかった。ただ、時間が欲しかった。トニーの死を受け入れる時間が。いや、それとも、この火に薪をくべる時間か。
──おれは、一体何なんだろう。
オーガスト・ウォーカー? CIAのハンマー? 体制のためにと拷問や暗殺なんていう薄暗い仕事を生業にする愛国者? 違う。おのれのたったひとり愛する人も守れなかった男だ。傷つき疲弊した男だ。何度も裏切られた。国に政府に国家機関に。心は擦り切れ、もう諦めようと銃をナイフを、忠誠心を捨てようとした。そのたび、トニーがあの手ですくってくれた。ぼろぼろになった心に寄り添い、「すくなくとも、僕が安心して眠れるのは君のおかげなんだ」と言ってくれた。
「もしも本当に君が国を信じられなくなったら、二人でここを飛び出そう。僕は絵を描いて、君はモデルになればいい。きっと楽しい」と、冗談みたいなことを本気で考えてくれた。「君が望めば、いつだってここから逃げられるし、逃げなくてもいい。まだ君の正義は、僕が信じているから」と笑ってくれた。おれのトニー。おれの世界。おれのすべて。
──その彼を失って、どうしてまだこの体制を守ろうとする?
ぷっつりと糸が切れたような気持ちになった。心の奥に灯った火は、いまや烈火の炎となって彼の心臓を燃やしていた。
──信じていた体制がおれを裏切り続けるのなら、大事な人を奪ったのなら。許せない。使い捨ての命、国家への忠誠、社会の歯車。敵も味方も死体の山を築き上げて、やっと維持しているのがこの歪んだ平和な世界ならば。いっそ一度壊してしまえ。更地にしてしまえば、すべていちからやり直せる。
オーガストは終末妄想に取り憑かれた信者ではなかったが、その考えは、まるでひとつの天啓のように脳梁へとひかりを導いた。そう、すべて壊してしまえば──。
「苦しみのあとに平和がやってくる……苦しみなくして平和などない……」
そうして彼は、体制を壊さんとするアナーキスト、ジョン・ラークは、炎のなかからひっそりと産声を上げたのだった。