//煙草とアイスクリーム
初秋に入ったというのに、照りつける太陽がまだ真夏の日差しを残していた。
アスファルトの放射熱がひどい駐車場を足早に通り抜け、トニーはCIA本局の建物内部へと急ぐ。中に入れば、白い大理石の内装がひんやりと身を引き締めてくれたし、作業室にたどり着けばクーラーも効いていて涼しかった。今日は同時進行で作業が三つもあるので、彼は忙しく手を動かさなければならなかった。一つ目の偽造書類に手を付けながら、懐から煙草を取り出す。もう何年も習慣になっている動作で、火をつけ、煙を深く吸い込んだ。
「なるべく早めに頼む」と上司のオドネルに頼まれていた書類だ。パスポートやら、出生証明書やら、とにかく人を一人国外へ逃亡させるために必要なもののいくつかだった。細かな情報は部下に精査させてあらかた作成は済んでいるので、トニーのところへ来る頃には仕上げの段階に入っているものが多くある。責任は重大。一本目の煙草を吸い終わったところで、自分の分の作業を確かめ終わり、彼は吸い殻を灰皿に押し付けて仕事に入った。
昼過ぎにソロがその部屋を訪れたとき、斜めになった作業台の横に置かれた机の灰皿には、吸い殻と灰がうずたかく積もっていた。十本、いや、その倍ちかく吸った後だろう。今日の作業はひときわ神経質になるものだと察した彼は、トニーに声を掛けることをやめて、外へと出掛けることにした。こんなに暑いなか、スーツ姿で散歩をするのはおすすめできないが、ここへ来る前にちょっと行った先でアイスクリームを売っていたのを思い出したのだ。トニーの作業は山場を迎えているようだし、休憩がてら差し入れでもしようと思ったのだった。
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オドネルに書類を提出したトニーは、時計を見てすっかり昼を食べそこねたことを知った。時間はもう三時を回っていた。どうりで空腹を感じるわけだ、と思い、ジャケットから財布と煙草とライターを取り出して外へ出ようとした。そのときだ。事務局の入り口でわっと人の歓声のようなものが上がった。何だと思って作業室を出ていくと、なんと、小さなバケツほどもあるアイスクリームのパッケージを書類用のカートに何個か乗せたソロが、「皆さん、休憩にいかがかな?」と、色とりどりのアイスを紙コップにすくって配って歩いているのだ。驚きと同時に呆れる。ここはバースデーパーティーの会場じゃあないぞ、と思いながら、トニーは人だかりをかき分けてソロに近づいた。
「なにをしているんですか!」
「いやあ、外にアイスを買いに行ったはずが、俺が売り子をやる羽目になってね……このへんは話すと長いんだが、大量にパックのアイスをもらったからおすそ分けさ」
「はあ……」
まったく分からなかった。かいつまんで説明してもらうと、外でアイスクリームのワゴンに寄ったら食い逃げの子どもを追って店主がいなくなってしまい、放っておくのも国家機関に務めるものとしては忍びないと、仕方なく列の客をさばいていたら思いの外人が集まってしまい、いままでずっとアイスを売っていたというのだ。確かに、ナポレオン・ソロという人物にはお人好しの面はあるし、おそらくルックスと話術で楽しんで売り子に扮したのだろうと思うとしっくりきてしまった。そうして、帰ってきた店主にお礼としていくつかアイスをもらってきたというわけらしい。紙コップとスプーンはおまけだ。
「あなたの話は突拍子もなさすぎてついていけません」
「そういって最後まで聞いてくれるんだから。ところで君もどうかな?」
無料のアイスとあって、事務局内部の人間はほとんどもらっていっただろう。おかげでパッケージのアイスは空になっていたし、とっくに人だかりはなくなっていたが(皆忙しいのだ)、ソロの手元にはまだ紙コップが二つ残っている。チョコレートとバニラ。室温ですこし溶け始め、てろりと蛍光灯を反射する表面。思わずチョコレートに手を伸ばしてしまった。「そうか、君はチョコが好き、と」などと言ってメモを書くふりをするソロ。「君の好みは把握しておきたいからね」と付け加えられて、顔がぽっと赤くなるのを感じた。
「あなたっていう人は……僕をあまりからかわないでください」
「からかってないさ。恋人の好みは知っておきたいだろう」
そう言われて、ますます顔に熱が集まる。ここは職場だ。いまは人が近くにいなくてよかったが、聞かれたらまずいのではないか。いや、ぜったいにまずい。トニーはソロの腕を引いて、鍵のかかる自分の作業室へと放り込む。周りからの「またソロとメンデスが夫婦漫才やってるよ」という声は聞かなかったことにした。
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クーラーの効いた作業室はひんやりと涼しく、こんな環境で冷たいアイスを食べるのは贅沢すぎるのではないかと思ったが、舌に乗る甘みにはかなわない。小さな紙コップはあっという間に空になり、灰皿の横へと捨て置かれてしまった。食べ終わってしまうと舌が寂しいと感じるもので、トニーはついつい煙草へと手を伸ばしてしまう。と、それを見ていたソロに顎をすくい取られ、口付けられてしまった。唐突に。いきなり。「ここは職場なのに!」という心の叫びは吸い取られてしまう。
ソロは肉厚な舌をトニーの口内へと割り込ませ、ぬるりと表面同士を擦り合わせる。彼の食べていたバニラの味が一瞬だけ落ちてきて、トニーはついそれを追ってしまった。甘い。白くてすぐに溶けてしまう、人工香味料のバニラビーンズの香り。ソロが右足をトニーの股へぐっと押し込んで、壁に身体を縫い止めてくる。両腕を絡め取られ、厚い胸板がぎゅうとトニーの胸を押しつぶした。逃げ場のない抱擁。「あ」とか「う」とか抗議の言葉にもならない声を上げたが、まったく離してくれやしない。トニーは唯一自由になる足で、ソロの高そうな革靴のつま先を思い切り踏みつけた。
「痛ッ」
「自業自得です」
唇を拭いながら冷めた目でソロを見るトニーは、胃の中のアイスクリームよりも冷たかった。どっかりと椅子に座って「職場でそういう行為はしないと決めたでしょう」と冷静に説教をされる。たしかに、ルールを破ったのはソロだ。しかし、トニーだって一瞬応えてくれたからいいと思ったのに。トニーの、意外と小さな口でアイスを食べる姿、きれいな白い前歯から覗く赤い舌、まだ足りないと煙草に手を伸ばしてしまう仕草があまりにも可愛らしいのも悪い。とは、経験則から鑑みて口には出さなかったが。
「口寂しいのかと思ってしてあげたのに」
「僕には煙草があるので大丈夫です」
「はあ、妬けるねえ」
トニーはもう箱から一本の煙草を取り出して火をつけていた。まるで、さっきのキスをごまかそうと躍起になっているように見えて、ソロにとっては可愛らしい抵抗だと感じた。どうせならばと、彼の手から箱を奪う。じとりと目で追われるのをにやりとかわして、ソロも一本頂戴することにした。「これくらいなら許してくれよ」と、火のついていない煙草を咥えたまま、先端をトニーの火種に持っていって。俗に言う、シガレット・キス。すい、と上品にかがまれて、あっという間に火を持っていかれてしまった。それはもう、常習犯かと思うほど洗練された一連の動きだった。
けれど、思い出す。彼は戦争帰りの男だ。戦場で吸う煙草は、ライターのオイルがもったいないから隣のやつから火を借りるのだ、と言っていたことを。そこにすこし、知らない過去のソロを見てしまって、トニーの胸がきゅうと痛んだ。普段は吸わないくせに、吸えば誰よりも様になっている姿。シガレットの広告塔にでもなれそうだ。それが、なんだか遠く感じて。
吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押し付ける。ソロの煙草も奪って、吸いさしを灰の中に押し込んだ。驚いた彼の頬を両手で掴んで、そうして、ぺろりと舐めるだけのキスをした。とうとうルールを破ってしまった。自分から。「バニラが食べたくなったんです」と言ってごまかしたが、ソロには通じないだろう。いや、思い切り通じたのだろう。「今夜はアイスクリームを買って帰ろうか、ダーリン」とご機嫌な声で返された。