//The Big Bad Wolf
最初に思ったのは、歯並びがきれいだな、ということだった。
つぎに、ちょっと開けっ放しになった口が可愛らしいな、と思った。
どちらもふつう、先輩に対して抱く感想ではないけれど、オーガストはトニーを見つめながらぼうっと考えていた。
「そんなに見ていてもやらないぞ」
どうやら、ランチを横取りされると勘違いしたらしい。かぶりついた跡の残るハンバーガーを片手に、トニーは眉をしかめていった。
「違いますよ、あなたを見ていたんだ」
悪びれも恥じらいもなくいってのけると、ますます眉間のしわが深くなる。こういう、口説き文句みたいなことをいうと、彼はいつもそうだ。変な顔をして、「お前は何をいっているんだ」と表情で訴えてくる。
昼過ぎに局を訪れたら、ちょうどトニーは遅いランチの最中だった。いつもテイクアウトの、何やら身体に悪そうなもの。自分に料理が出来たなら、サンドイッチでも作って持ってくるのに、と思うだけ思った(が、オーガストに料理は出来ない)。
「ところで、今度使うパスポートが出来上がってるかと思って来たんですけど」
本来の目的を思い出して、トニーの机上を見る。散らかった書類。ばらばらに置かれた筆記用具。吸い殻のうずたかく積もった灰皿。いま食べているハンバーガーの入っていたであろう紙袋。雑多なものに囲まれて、そこにお馴染みのちいさな冊子がぽつんと置かれている。
「ああ、ちょうど昼前に出来上がった。持って行くといい」
「ありがとうございます」
汚さないよう、わざわざナプキンで手をぬぐってから、トニーは机上のパスポートをオーガストに手渡す。そういうところだけは丁寧だな、と思った。
本人はいかにも「自分のことには無関心」というていなのに、仕事に関してはとても神経質だ。いまも、口ひげにちいさなパンのかけらがついているのに気づいていない。
ここが局でなかったら、自分の唇で取ってやりたい、とオーガストは思った。
そんなことを思われているとは知らず、トニーはランチを続けた。もそもそと、大きな熊が餌を咀嚼しているみたいな食事。大きな身体とぼさぼさの髪と髭もあいまって、それは秀逸なたとえだった。
かぶりつくとき、ちょっと猫背気味になるのが癖らしい。ひとくちがちいさいせいで、さっきから手の中のハンバーガーはちっとも減らないように見えた。
──ずいぶん可愛らしい。
とは、声に出さず心にとどめておく。口に出すと、また変な顔をされてしまうだろう。
用事はすんだが、オーガストはその場を去ることなくトニーの食事風景をながめていた。そもそも、彼の様子を見に来るのが目的だった。
気を抜くと食事も抜いて仕事に打ち込むトニーが心配だったり、あわよくば一緒に食事に行かないかと誘うチャンスを狙っていたり、たんに姿を見たいだけだったり。
パスポートのことは口実だ。しかし、口実がないと会いに来られない関係でもあるまい、なぜ素直に「あなたに会いたくて」といえないのだろう。オーガストは無意識に口元を指でなぞりながら、たぶん、そこまで恥を捨てきれないからだろうな、と思った。
オーガストとトニーは、いちおう、恋人のような関係だった。「のような」というのは、はっきりと確認したことがないからだ。
潜入に必要な書類を揃えてもらうために何度か会ううち、トニーに惹かれていき、ついに気持ちを打ち明けたとき、彼は「そうか」とだけいった。オーガストにとっては拒否されなかっただけで奇跡のようだったので、それからきちんとした返事をもらえなくても充分だった。
顔に触れるのを許され、くちづけを許され、ついには肉体関係も許されているいま、はっきりと口に出されなくても、愛されているのは感じていた。
トニーは自分の気持ちを言葉にするのが苦手なのだ、とよくわかったからだ。
そのかわり、目に見える態度が素直に伝えてくる。
たとえば、頬に触れるとき自然と顔をすり寄せてくるところとか、くちづけるとちょっぴり口角が上がってうれしそうな表情になるところとか。あとは、ベッドでの様子も(彼は否定するだろうけれど)。
そこまで思いを巡らせて、オーガストは口元を押さえた。にんまりと笑ってしまいそうになったからだ。目の前で食事を続けるトニーの手元。パンにくっきりと残る噛み跡を見て、自分の腕に残る同じような跡を思い出したからだ。
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トニーは、よく喘ぎ声を我慢する。
自分の声は聞き苦しいと思っているらしいからだ。
オーガストにいわせれば、彼の声はどんな旋律よりも甘美で素晴らしい。情事に名前を呼ばれただけで、木漏れ日がふりそそぐように穏やかな気持ちになれる。または、火がついたように情熱的になれる。
それなのに、声を上げるのを我慢して、唇を噛みしめてやり過ごそうとする。無駄な抵抗。最終的には、何もわからなくなって、あられもない声を上げて快楽の海に溺れてしまうというのに。
しかし、情事のはじめはまだ恥を捨てきれないのだ。あんまりつよく噛むと、唇が切れてしまうのではないかと思って、あるとき、オーガストは自分の腕を指しだした。
「トニー、噛んで」
ただ、彼を気遣ってのことだったのに、トニーは心底おどろいた顔で「そんな趣味があったのか?」と不思議そうな顔をしていたのを覚えている。
「違いますよ、唇が傷つくから、俺の腕でも噛んで我慢してください」
「ああ、そうか……」
情事の最中でぼんやりしていたことも手伝ったのだろう。トニーは素直にオーガストの腕の内側を軽く噛んだ。
挿入していた性器を抜き差しするたび、ぎり、ぎり、と律動に合わせて歯が肌に食い込む。痛みは感じなかった。奥を突けばつくほど、噛む力はつよくなり、ついにぶつっと皮膚が裂けたが、オーガストは気にせず律動を続けた。もうすこしでトニーがいきそうだったからだ。
あんのじょう、彼は最後には腕を口から離して「ああ、」と一声喘いで絶頂を迎えた。オーガストも遅れて、収縮するなかへと吐精した。
天にも昇るような、とてもやりきったような感覚。彼のなかはとろけるように心地がよくて、オーガズムを迎えた後の、きゅうきゅうと名残惜しげに食いついてくるところまで愛おしい。
「血が出てる!」
ところが、次の瞬間、トニーの焦ったような声に現実へと引き戻された。
たしかに、彼の噛んだ腕の内側が出血している。深く残った歯形。それは愛の証のようだ、とオーガストは夢見心地だったが、トニーには違ったらしい。さきほどまでの快感をすっかり脱ぎ去り、おろおろとして戸惑っていた。
「大丈夫ですよ」
「だ、大丈夫じゃない、悪い、こんなに深く……痛かったろう……」
トニーは謝り倒すが、オーガストは本当に痛みも何も感じなかった。感じたとしたら、愛情だろうか、などと思っていた。
だから、「舐めてくれたら痛みも治まるかも」と調子に乗ってにいってのけた。このときばかりは、恥も何もなかったのだ。
トニーは例の、眉をひそめた変な顔をしていたが、自分のせいだと感じていたせいだろうか、おずおずとオーガストの腕に舌を寄せ、ぺろりと流れる血を舐めた。
もそ、と口髭の当たる感触。上目遣いにこちらを伺う表情。次の瞬間、オーガストの性器が復活したのは無理もないことだった。
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そういうわけで、オーガストは口元をさりげなく押さえながら、トニーのランチを見守っていた。
まったく、食事をするだけでこちらの劣情を煽るなんて、とてもいけない人だ。などと思いながら。
──今夜も腕を噛ませてみようか。
不埒な考えが頭をよぎる。
その頃、トニーはすっかり食事を終え、午後の仕事に取りかかろうとしていた。「で、お前はいつまでここに居るつもりだ?」と、いぶかしげに問われてやっと気づいた。だいぶ長居をしてしまったようだ。
「いやあ、先輩のランチを見ていたら、つい昨日のことを思い出して離れがたくって……」
「昨日?」
さりげなく腕をさするジェスチャーをすると、トニーは「あっ」と思い当たった顔をして赤面した。
それが情事のときの恥じらいのようで可愛らしくて。オーガストはもうすこしからかってみたかったが、トニーが怒りを露わにする前に退散することにした。
「また噛んでいいですからね」とだけいって、オーガストはその場を立ち去った。どうせ、今夜も会うのだ。それまで、行き場のない感情はあずけておこう。
腕の噛み跡が、しあわせそうにじんわりと痛んだ。