03. 鶏の赤ワインソース煮
あの子がおれにいつまでも他人行儀なところがあるのは、たんなる照れ隠しだと思っていた。と、ナポレオン・ソロは考える。鶏もも肉を一人分ずつにさばきながら、あの子、トニー・メンデスのことを思う。彼は、この家の家主で、まだ帰ってきていない。家主不在のキッチンで夕食を作るソロは、いつもどおりのピッキングでこの家に入り込んでいた。合鍵を渡されないのも、最後の砦とばかりに照れているのだろうと。
けれど、どうやら違うらしいことに最近気がつきはじめた。たとえば、朝食の席でのふるまい。おれに一口パンケーキを分けてくれたトニーは、まったく無垢な顔で、まるで愛おしいものに分け与えるようにそれを口に運んでくれた。そこに恥じらいはまったくなかったといえるだろう。そして、昼食。サンドイッチを食べる様子を、まるで欲情したかのようなとろりとした瞳で見つめていた彼は、何を思ってそんな顔をしていたのだろう。
ソロは、トニーとの関係をすこしずつはかっていきたかった。可愛い後輩をたぶらかす先輩のていで、すこしずつ距離を詰めていきたいと思っていた。出来れば、彼のいっとう大事なひとになれればいい、とも。けれど、それを言葉にするには、ソロは年を取りすぎていた。もし、自分がトニーよりもすこし若ければ、あるいは同い年であれば、彼のやさしさに甘えて告白してしまっただろう。愛していると。彼は許すひとだ。年下の男のふるまいを、何でも許すだろう。
──だが、おれのこととなると、話は別だ。
年上のずるい大人。睦言でしか「愛している」と言わない男。彼にはそう思われているだろう。そうふるまってきたふしもある。実際、やっていることは愛人止まりだ。この関係が心地よいのもあるが、何より、ソロは彼のやさしさに甘えて関係を成就させたくなかった。それは、長年プレイボーイとして数々の女性に甘えてきた男の、本気の恋に対するプライドなのかもしれなかった。
愛情を伝えるのに、肉体関係でしかそれを表せないのがもどかしくて、いつからか、ソロはトニーに料理をふるまうようになった。料理はいい。作り手の愛情をぜんぶ皿の上に表すことが出来る。トニーは気づかないかもしれないが、ソロはそれでもいいと思っていた。「君のため」だなんてわざとらしく出された皿では、穏やかに味わえないだろう。ただ、趣味の延長でふるまっているだけ、とでも思ってくれればいい。そして、食事をともにした回数だけ、彼に愛をふるまっているのだと、自分だけが分かっていればいい。
バターを落とした鍋に、粗くみじん切りにした玉ねぎとにんにく、セロリを入れて炒める。にんにくの香りが立ってきたところで、小麦粉を振り入れて軽く火を通したら、赤ワインとトマトの水煮缶を加えて煮立てる。これがメインのソース。ダイスカットでない、丸のままのトマト缶を使うのはちょっとしたこだわりだ。トマトを手で潰しながら鍋に入れるとき、こんなふうにおれの心臓の、愛情の部分だけを絞り出せたら、いっぺんで彼に好いてもらえるだろうか、などと思ってみる。ちょっとした冗談のつもりだったが、案外いい考えだと思ってしまったおれは末期だろうか。
ソースが一度煮立ったら、コンロの火を弱めてしばらく煮込む。味を調えるのは後だ。その間に、さっき切って塩胡椒を振っておいた鶏もも肉を、オリーブオイルをしいたフライパンで焼く。じっくりと皮目から焼いていくと、皮と身の間に挟まった脂がじわじわと出てくるので、それをキッチンペーパーで拭き取る。臭みを取るためのひと手間だ。身が縮まないよう、弱火で焼くので時間が掛かる。その間に、後片付けをしていく。
──やっぱり、料理はいい。
手順を完璧にこなせたときは爽快感があるし、気分が落ち着く。自分の考えをまとめたいときに何かをする人間がいるが、おれの場合は料理かな、とソロは思った。
ソースを濾しているときに、玄関から物音がした。トニーの帰宅だった。ちょうどいいいタイミング。もうそろそろ仕上げに入るところだった。
「おかえり、トニー」
「ただいま、ソロ」
仲間と仕事をするようになってから思ったが、この「おかえり」「ただいま」というやり取りをするのはとても心地がいい。根無し草のような生活を送っている自分だが、いっときでも安心して過ごせる場所があると実感出来る。とくにトニーと交わす挨拶は、ほっとすると同時にあたたかな気持ちになれる。
「とてもいい匂いがしますね」
「ああ、もう出来上がるから、コートを脱いでおいで」
トニーは、彼特有のちょっとぎこちない笑みでソロを見ると、寝室へと向かって行った。その間に料理を仕上げて皿に盛る。鶏の赤ワインソース煮。こっくりと赤いトマトソースが食欲をそそる一品だ。付け合せはころころとちいさなポテト。添えるのはキャロットラペとカッテージチーズをあしらったレタスのサラダ。テーブルに置くと、ちょうどトニーが寝室から出てきたところだった。
「何か手伝うことは?」
「ワイングラスを出してくれないか」
この家にはなんと、ワイングラスなどという洒落たものはなかったのだが、ソロがワイン好きと知ったので、トニーがわざわざ買い揃えてくれたのだ。ころりとまあるい、ステムのないワインタンブラー。家で飲むには洒脱過ぎなくていい。何より場所を取らない、というのが、トニーのお気に召したようだった。「ソースに使ったのと同じワインなんだ」と言って注ぐと、「またあなたは高いワインを惜しげもなく……」と返ってきたが、諦め半分、苦笑交じりでもう慣れたといった様子だった。
何にというわけでもなく乾杯をして、食事を始める。トニーの食べ方はきれいだった。普段ファストフードばかり食べているくせに、こういうときのマナーはきちんとしていた。ちいさな口に、ちいさく切り分けた鶏肉を運ぶ。咀嚼。嚥下。その繰り返し。ときに挟まる会話。「美味しいです」とトニーがほわり、笑う。それだけで何かが報われたような気がした。
「あなたの料理は、とてもあたたかくて美味しい」
「そうかい」
「きっと愛情がこもってるんでしょうね」
ソロは、「そうだよ」と応えるべきかどうか迷った。愛情は最高のスパイス、なんていう生温いものではないんだ。もっと、君の身体を作り変えてしまうくらいの勢いで注いだものなんだ、と言いたかった。結局、「そうかもしれないね」とだけ言い、ワインを飲み込んだ。トニーは気づいているだろうか。この情熱を、熱量を、量りから溢れそうな想いを。けれど、ソロは隠してしまう。自分はいっときしか一緒にいられないから。いまの距離感がちょうどいいのだと、臆病になってしまう。こんな感情、いったい何処からやってきたんだ? と不思議に思う。弱気なんて、自分の柄ではない。なのに、この子を前にすると、どうしてか大胆になりきれない。薄っぺらな愛人の顔では、もう満足できないというのに。
皿を洗うのはトニーに任せた。いつも、「作ってもらったのに申し訳ないから」と言って、後片付けは彼がするのだ。それも、いつからだったろうか。三度目に食事を振る舞ったときから? それとも最初から? もう記憶の遠く彼方にあって思い出せない。そんなに長い間、彼に、彼だけに食事を作ってきたのだろうか。時間が経つのはあっという間だ。
ソロはまだ残っているワインを飲みながら、トニーが皿を洗うのを眺めていた。ダイニングから続くキッチンでは、しずかな水音がしゃらしゃらと流れ、ときおりカチャカチャと食器の擦れる音が響く。平穏な風景。ソロにとっては、忙しない仕事の合間に訪れる久方ぶりの平穏だった。ここが心地よくて、一歩も動きたくなくなるような。けれど、止まったら死んでしまう生き物のように、ソロも一処にとどまってはいられない性分なのだ。これは、いずれ仕事に駆り出されるまでの束の間の平穏。そう心に留めておかないと、自分が自分でなくなってしまいそうだった。
──面倒な男。
それが自分に対するソロの見解だった。それが気に入ってもいた。一見複雑怪奇でどうにも紐解けないようなふりをして、ほんとうのところ、ソロはシンプルな心情を持つ男だ。愛に一途。それを、わざわざ仮面で覆い隠して、誰の目にも見せていないだけ。イリヤとギャビーあたりには、だんだんと悟られているかもしれない。「君は面倒くさい男だねえ」と笑うウェーバリーが頭に浮かんで、ほんとうだ、と苦笑した。
こんな面倒な男にかまってくれるトニーは、すくなからず自分を好ましく思っていてくれるのだろう。何も言わなくても泊めてくれるようになったあたりで、ほんのすこし彼の愛情がランクアップしたのを感じた。おめでとう。ただの先輩から愛人にレベルアップだ。けれど、いまのところ、それ以上は望んでいても踏み切れない。
「あれ、まだ飲んでたんですか」
片付けのすんだトニーが戻ってきた。捲っていた袖を下ろして、ソロの向かいに座る。「僕ももう一口貰おうかな」と言って、空になったソロのグラスを奪ってワインを注ぐ。最近、この子はとみに大胆になってきた。それとも、酔っているからだろうか。赤くとろけた目尻で、上目遣いに微笑む姿が可愛らしい。
「ずいぶん美味しそうになって」
そんなに飲んでいたとも思えないのだが、トニーはとろとろと蕩けた表情でソロを誘った。グラスの縁にちいさく出した舌をつつ、と沿わせて、暗に情事の手管を思わせるようなふしだらなふりをする。普段真面目でお固いところのある彼からは想像もできない表情だ。
「シャワーは?」
「後で」
それだけ交わして控えめなくちづけを口の端に落とす。今夜は気分がいいらしい。挑発的なトニーは珍しい。二人は連れ立って寝室へ向かい、飲み残されたワインだけがダイニングに残された。
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「あ、あっ、レオ、レオ!」
情事の最中でしか聞けない愛称での喘ぎに気を良くして、ソロは律動を速めた。トニーが下半身をがくがくと震わせてまたいく。きゅうきゅうと締まるなかへさらに腰を進めると、背中に回された手が皮膚をひっかく感触が伝わってきた。そのまま奥へと射精する。「くぅ……」という空気の吐き出されるような喘ぎを漏らして、トニーはくったりと力を抜いた。
「まだいけるかい?」
「もう、もうだめ……」
「君が誘ったのに? ねえ、あともう一回だけ」
「あ、う……あと一回だけ……ですからね」
あなたの「あと一回」は当てにならない。という台詞を飲み込んで、トニーはそうっと脚を開いた。ソロが、なかから出したペニスを扱いている。ほんとうに、この人は自分より歳上なのだろうか。と思うほど元気だ。こんなふうに強請られるのも今夜だけではなかった。はじめの頃は、この人の体力についていくのがやっとだったのに、いまでは「もう一回」の言葉に応えることが出来る。これは成長というのか、調教というのか。ずいぶんと彼の好みに合わせて変えられてしまった。と、トニーはそれを思って顔を赤らめたのだった。
「トニー、集中して……」
「ん、」
ゆっくりと挿入されるペニスを感じながら、トニーは背筋をぞくぞくと震わせた。気持ちいい。もう何度もいかされてつらいはずなのに、身体は正直に快感を拾い直してしまう。ゆるゆると奥を突かれて、「あ、あ、」と断続的な喘ぎ声が喉をせり上がってくる。ぴったりと恥骨同士が擦れ合うほど奥に進まれて、とつとつと結腸の入り口をノックされる。
「ねえ、いいかい?」
ソロがトニーの耳たぶを食んで、ふっと耳の穴に息を吹き込む。それだけで軽くいってしまったトニーは、何が何だか分かっていない様子で、ただこくこくと頷いた。ソロがトニーの腰をぐっと持ち上げる。最奥に当たっていたペニスの先端が、ごぷっと音を立てて、さらに奥の口へと入り込んでしまった。
「ああ、あっ!」
こわばる肢体。快感の度を通り越してしまい、トニーは生理的な涙を流しながら揺さぶられていた。半開きの口から涎がつうっと垂れている。自分の身体ではないみたいだった。耳障りではしたない水音も、肉のぶつかる音も、もう何もかも分からなくなっていた。視界が白くなって、息がうまく出来ない。コントロールを失った身体はトニーを裏切って花開くように快楽を受け入れた。甘美な快感のその先まで感じ取ろうとして、感覚が開ききっていく。
こわい、と思ったそのとき、ソロのくちづけが鎖骨に落とされ、そこからじんわりと温かさが広がっていった。あ、大丈夫だ、と思えた。身を任せてしまえばいいんだ、と。トニーは身体の主導権を手放した。途端に決壊する快楽の砦。なかが蠕動してソロのペニスをしゃぶる。きゅんきゅんと痙攣する下腹部。うごめく腸壁に我慢しきれず、ソロが精を放った。奥のおくにまで届く精液があつくて、トニーはその感覚でいった。一度、二度、ソロがペニスをずるりと抜く感覚で三度。もうどこを触られてもいきそうだった。ふわふわと頭が働いてくれない。
「はあ、はあ、あ……れお……」
涙で視界がかすむなか、ソロの手を探すと、すぐ両手に指が絡んできた。彼はこういうときいつだってこちらの意図を汲んでくれた。ほっと安心したトニーは、どっと疲れが出てしまい、気絶するように眠ってしまった。
「無茶をさせたね……」
もう聞いていないであろう相手に、心底詫びるような口調で話す。また許されてしまった。この子は、どんなときでも「だめ」とは断らない。それは、嫌われるのをおそれる子どもみたいなものだろうと思う。こんなところで力関係が出来上がってしまったのは、どうしてだろう。トニーはおれに嫌われることをおそれている? 何故? それを追求してみたい気もしたが、いまはとにかく気持ちの良い倦怠感が体中に広がっていた。
ソロは、トニーの身を清めてから、シャワーを浴び、するりと彼の隣に滑り込むと、しずかに横たわった。とうに寝息を立てて安らかに眠っているトニーの横で、ずっと彼の横顔を見つめていた。今夜は眠れそうもなかった。何かが身の内でぐずぐずとくすぶっている感覚だった。トニーはいったい、おれのことをどう思っているのだろうと聞いてみたかった。関係を先に進めたいのか? どうして? 彼を愛しているから? それでも、トニーを置いていく自分は変えられない。このままていのいい愛人関係がいいのでは? けれど、それでは物足りなくなっている自分がいるのも確かだ。
──彼はおれの帰る場所。
それがしっくりときた。いついかなる任務で遠出しても、必ず帰りを待っていてくれるトニー。彼はおれの家なのだ。この、根無し草のような男の、安心して休める場所。そう思うとすっきりとした。自分のなかで答えが出たことが。
いつか、それを伝えようか。それとも伝えずにいようか。ここに来て弱気な選択はなしだった。伝えよう。そうして、どうかこれからもおれを待っていてくれと願おう。いつだって、君のことは心のいっとう特別な場所に置いておくから、と。
寝返りを打ってこちらを向いたトニーの額にくちづける。どうかおれと同じ気持ちでいてくれと。この愛を、受け止めてくれればいいと。