Eat me, Drink me. - 4/5

04. 眠れない夜のカクテル

 

──とろりと甘い匂いがする。

 午前二時過ぎの深夜のキッチンで、誰かが何かを作っている。きっとソロだ。

 トニーは、眠たい眼を擦りながらゆっくりと起き上がった。情事を交わした後に眠ってしまってから、もう二、三時間は経っただろうか。開けっ放しの寝室から通じるダイニングを通り越して、キッチンの匂いがここまでやってきていた。

──甘い、果実を煮詰めたような匂い。

 とろとろと眠さが勝りそうな頭を振って、トニーはベッドを下りた。適当にスラックスとシャツを身に着けて、キッチンへと向かう。そこにはやはり、ソロがいた。彼はずっと起きていたのだろうか、パジャマに暖かそうなローブを羽織ってコンロの前に立っていた。

「ソロ?」
「やあ、起こしてしまったかな」
「いいえ、あなた、寝てないんですか」

「……眠れなくてね」

 ヴァン・ショーを作ったから、一緒に飲もうか。とテーブルから椅子を引く。ついエスコートされて座ったものの、トニーはソロの「眠れなくて」という言葉が引っかかって上手く飲み込めなかった。彼はいつも、事がすめば朝までゆったりと眠る方だと思っていた。いままでも、こんなふうに眠れない夜はあったのだろうか。トニーはまったく気づかなかった。

「さあ、これで温まって、またお眠り」

 出されたマグカップには、温めた赤ワインにドライのオレンジやプルーン、シナモンやクローブといったスパイスが入っていた。

「赤ワインはね、温めるとこっくり重くなってくるんだ。でも、それだけだとくぐもって重たすぎるからね、柑橘系の果物やスパイスなんかでバランスをとるんだよ。果物の香りや甘みがゆっくりと溶けこんで、華やいだタイミングで火から下ろすのさ。スパイスも入れれば身体も温まるし。こんな夜にはおあつらえ向きかな」

 ソロの言う通り、手のなかのマグカップから香るオレンジやスパイスは滋味に富んでいそうだった。輪切りにされたオレンジや、半分に切られたプルーンの覗く水面は、ちょっとした芸術作品みたいにきれいだった。一口味わうと、ほのかな甘さの奥にまろやかになった柑橘の酸味や、シナモンのぴりりとした刺激を感じる。目で見て、鼻で感じて、舌で味わう。手に温かさを感じ、耳に彼の声が滑り込んでくる。五感を刺激されて、眠気が一気に醒めてしまった。

「ふふ、逆に眠れなくなってしまいますよ」
「おっと、それは悪いことをしたね」
「いえ、美味しいものにありつけたので、よしとします」

 ほんとうに美味しいカクテルだった。ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら飲むヴァン・ショーは、この時期にうってつけのものだった。こんなに美味しいなら毎日飲みたいです。と言うと、ソロは「おれの深夜のお楽しみなんだよ」とにやり、笑った。それが悪いことを企む少年みたいで、トニーはどきっとしてしまった。また、この人の知らない顔を見られた。そんな思いで、体温が上がった気がする。

 ソロのことは、知らないことの方が多い。長く付き合ってきたけれど、自分のことをほとんど話さない人だから、トニーはほとんど彼のことを知らないままだ。知っているのは、陸軍に入って、そこで美術品を盗んで売りさばくことを覚え、泥棒に転身し、その手腕から逮捕後CIAにスカウトされた、という経歴くらい。こんな、書類の要約みたいなこと。

 それよりも、彼がどういうときに笑うのかだったり、怒るのかだったり、そういうことを知りたいと思っていた。それに、美術のこと。どんな絵が好き? 盗む基準はあったのか? 一緒に美術展に行きたいなんて言ったら困る? とか。まるでデートに誘いたいティーンネイジャーだ。トニーは内心で笑った。

 ソロは優雅にコンロの前に立ったままヴァン・ショーを飲んでいた。指先を温めるようにマグカップを持って、ときおりすりすりとカップの側面を撫でている。寒いのだろうか。

「ソロ、来て」

 トニーは、自分のマグカップをテーブルに置くと、ソロを呼び寄せて隣に座らせた。同じく彼のマグカップも置き、ソロの両手を自分の手で握る。温めるように、まあるく、やさしく握った手は大きかった。やっぱり指先が冷たい。ほうっと息を吹きかけてから、唇で爪の先を食む。冷たい感触が薄い皮膚から伝わってきたが、代わりに自分の体温が彼に移っていくのを感じる。

「トニー……」
「温かいでしょう」
「……ああ、とても、ね」

 その光景は、ソロにはとてもうつくしく思えた。健気に尽くすこの子の、なんとやさしいことだろうと、心までじんわりと温まってきた。いまなら言ってしまってもいいのではないか。長い間、待たせてばかりで不安にさせてきた彼に、愛を囁くときではないのか。

「トニー」
「ソロ」

 二人は同時に互いの名前を呼んでいた。びっくりして一瞬動きが止まる。「ソロ、何ですか」「トニー、君の方こそ、何かな」お互い、相手に遠慮してしまって先が進まない。マグカップから立ち上る湯気だけがゆらゆらと二人の間にたゆたっていた。

 と、トニーがソロの指をぎゅうと握り直して話し始めた。

「あなたと、もっとこうしていたいんです。もっと、お互い知り合いたい。ただ肉体関係があるだけの、この距離感に物足りなさを感じてきたんです。ソロ、僕はあなたを、あなたを……」
「愛してる」
「えっ」
「愛してるよ、トニー。おれは、君を愛おしく思う。いつもおれの帰りを待っていてくれる君に、いつの間にかおれの帰る場所を見出していたんだ。物足りないのはおれも同じだった。ただ、関係を深めるのがこわかった。おれは一処に留まれないから、次も待っていてくれるかどうかなんて分からない。それがこわくて、言い出せなかった。でも、いまなら言える。どうか待っていてくれと、おれを愛していてくれと」
「……ずるいですよ、それ」

 トニーは鼻声でソロを詰った。「僕の言いたい気持ち、全部言っちゃうんですから」と言って、手のなかのソロの指にくちづけた。もう指は熱いくらいに温まっていた。

「君の言葉でも聞きたいな」
「何を?」
「愛してるって」

 トニーはソロの指を離してマグカップに手を伸ばした。一口、二口飲んでから、「僕も、あなたを、あい、愛してます……」と言った。ちいさな声で。ソロはそれを聞き逃さなかった。俯いてしまった愛しい人の顎をすくって、口の端に軽くくちづけを贈る。返答のような、祝福のようなくちづけだった。

「いままでお互い我慢していたんだね、あるいは、臆病だったのかもしれない」
「あなたが臆病だなんて、信じられない」
「なるさ、本当に愛おしい人の前では、ね」

 手のなかのヴァン・ショーはすこしぬるまっていた。けれど、二人の胸の内には、ぽっと愛の火が灯っていた。もう、物足りなさを感じなくてもいいかもしれない。これから、その隙間をお互いで埋めていくのだから。

「これって、恋人っていうことでいいのかな」
「たまに遠距離恋愛になる恋人ですね」
「それでも、必ず帰ってくるから、迎えてくれよ」
「ええ、もちろん」

 そうだ、とトニーが玄関へと向かう。ちゃり、と音がして、鍵束からひとつの鍵が外された。戻ってきて、「合鍵です。この家の」とソロに渡した。彼はポカン、として最初受け取ってくれなかった。トニーがソロの手を開いてそこに置くと、「……いいのかい?」と応えがあった。

「これで、いつでも戻ってきてください」
「はは、おれには鍵なんて必要ないのに?」
「必要ですよ。僕とあなたの家なんですから」

 ソロは何となく泣きそうだった。受け入れてもらっただけでなく、確かなかたちで愛の証を貰った、と思った。鍵にくちづけて、「大事にするよ」と囁く。結局、トニーに甘えてしまうかたちで成就した関係だったが、ソロは満足だった。何もかもが報われた、と思った。

「それにしても、どうして突然気持ちを伝えようと思ったんだい」
「さあ……きっと、あなたの料理を食べすぎたからでしょうね」
「それって……」

 皿に乗せた愛情は、確かに伝わっていたのかもしれない。「あなたの手料理を食べるたびに、気持ちが募っていくのを感じたんです。このままでいいと思っていた距離感に物足りなさを感じたり、もっとあなたを知りたいと思ったり」と、トニーは言う。「もしかしたら、あなたの込めた愛情が満ちて溢れてしまったのかも」なんて。

「それなら、嬉しいよ」

 ソロはトニーの手を取って自分の胸に抱いた。「この身体ぜんぶにおれの愛情込めた料理が行き渡ったと言うなら、君はもうぜんぶおれのもの?」欲が出てしまいそうだった。いつか、この子の食べるものすべてを手づから作って、身体の構成を変えてしまいたい、と思った。

「まだまだ、足りませんよ」

 トニーは挑発的な視線でにやりと笑って答えた。彼の精一杯の強がりのようでもあった。心はとっくに陥落していたけれど、それをいま伝えてしまうのはもったいない、と。

「いつ出ていっても、帰ってきて、また僕に料理を振る舞ってください」
「ああ、もちろん。満ちるまで、ね」

 次の約束、次の離別、次の逢瀬。
 何度離れても、きっと帰ってくる。ここが二人の帰る場所だから。ソロはトニーにくちづけ、きらきらと輝く鍵を見ていた。君が、おれの帰る場所だから。きっとまた、料理を作って、君を満たすために愛を捧げるのだ。皿の上に乗せて。