Larks’ Tongues In Aspic - 5/8

//Secret Truck

 

「オーガスト、大丈夫だ、オーガスト」

 トニーの声だ。彼独特の、男にしてはちょっと高い声。その声がおれを呼んでいる。ここは天国か。いや、おれの逝く先は地獄のはずだ。もしかすると、神とかいう存在がサービスのつもりでおれに幻聴を聞かせてくれてるのか。トニーの声はだんだんと遠くなり、水のなかへと沈んでいくときのような、ぼんやりとしたものになり、とうとう、聞こえなくなった──。

 苦しみの後に平和がやって来る、と言ったのは誰だったか。おれだ。しかし、この苦しみに果てなどなく、ただ暴力的なまでの痛みが延々と続き、痛みで気を失ったかと思えば痛みで意識が浮遊する始末。そう、意識。オーガスト・ウォーカーは生きていた。

 奇跡的な生還といえた。重度の火傷と打撲と骨折と、彼の身体はずたぼろになってしまったが、とにかく生きていた。自発的に呼吸が出来るようになるまで二週間かかった。手術に次ぐ手術は、彼の体力がほんのわずかでも回復したと見えればすぐに行われた。満身創痍で、何週間もあの世とこの世を行ったり来たりしている気分だった。意識がちゃんと戻ったのは、カシミールでの事件から二ヶ月も経ってからだった。痛みで絶叫する自分の声で目が覚めた。

「オーガスト、大丈夫だ、オーガスト!」

 誰かの声、よく知っている、男にしてはちょっと高めの──。

 誰かが自分を抱きしめている。あたたかい腕。おれが壊れそうになるといつもすくってくれる、あのやさしい手だった。そこには、トニーがいた。痛み止めのモルヒネが見せる幻覚かと思っていたが、意識がはっきりしたいま、自分を抱きしめる腕がほんものだと分かってしまった。「どうして」という疑問は言葉にならなかった。絶叫したまま、オーガストは痛みでまた気を失った。

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 トニー・メンデスは、生きていた。

 彼は、拷問して死亡したと報告にはあったが、事実は違った。テロリストたちに捕まり、拷問を受けて瀕死の重体になっていたところを救助された。しかし、意識は戻らず、まだ残党に命を狙われる危険もあったため、死亡したことにされたのだ。

「ほんとうに、つい最近意識を取り戻したんだ」

 うっすらと微笑むトニーが消えてしまいそうで、オーガストは彼の手を握った。握力が回復していないせいで、子どもよりもずっと弱い力だったが、トニーは強く握り返してくれた。

「そうしたら、今度は君が瀕死の重体で運ばれてきて、驚いたよ」

 トニーは、オーガストのことをぜんぶ聞いていた。ジョン・ラークとして行った数々のテロ行為のこと、声明文のこと、IMFとの作戦のこと、プルトニウムを用いてさらなる大規模テロを企てていたこと。それが失敗して、いま、ここにいるのだということ。

 オーガストの左手は手錠でベッドに繋がれていた。彼はいちおう、CIAに拘束されているのだ。裏切り者、犯罪者、アナーキスト。それでも、トニーは自由な方の右手を握って、オーガストに話しかけてくれる。「君が元気になったら、一発ぶん殴ってやろうと思ってるよ」と言って。

「おれを見放さないんですか」
「まさか、そんなこと、出来るわけがない」

 だって、君を愛しているんだから。と言う言葉は、ちいさな、ほんとうにちいさな声で囁かれた。この会話は盗聴されているのを知っていて、後で詰問されると分かっていて、それでも、トニーはオーガストに愛を囁くときは照れて小声になってしまうのだ。

 ほんとうは、トニーにはまだ事が上手く飲み込めていなかった。オーガストを許すようなことを言っていいのか分からなかった。彼のしでかしたことは、とうてい許される行為ではない。ジョン・ラークとしてオーガストがやったことには、代償がつきまとうだろう。彼の企てたテロ行為で失われた生命は、亡霊となって彼自身にのしかかるだろう。

 けれど、トニーはオーガストの手を離せなかった。この手を一度離してしまったから、彼は壊れてしまったのだ。もう、二度と離さない。

「もうたとえ、死が二人を分かつときが来ても、僕は君を離さない」
「それって、プロポーズですか」
「そうかもな」

 だったら、嬉しい。と、オーガストが笑う。まだ右半分の顔面が酷く焼けただれたままの醜い顔だったが、トニーには彼の笑顔がよく分かった。以前の、自分のよく知る、可愛い後輩の笑顔だった。

 オーガストは、「病めるときも、健やかなるときも、死が二人を分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」という文句を思い出していた。自分のしてきたことは、トニーにはきっと許されないだろうと思っていた。しかし、彼はもう離さないと言ってくれた。それが、許しなのかどうかはまだ分からない。二人には時間が必要だった。けれど、トニーが生きてここにいる。それが実感出来ただけで、オーガストは涙が出るほど嬉しかった。自分はまだ生きていていいのかもしれない。まだ、あなたを愛していてもいいのかもしれない。

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 午後の光が病室に差し込み、トニーは眩しそうに目を細めた。モルヒネがよく効いているせいか、オーガストはさっきまた眠りについたばかりだった。これから、大変だろうと思う。彼の処遇がどうなるか分からない。不安はある。それでも、二人とも生きている。待ち受けているものが何だとしても、きっと、乗り越えられる。ほんとうの愛は、ここにあるのだから。