//ニュー・アゲイン
シュッ、シュッと音がする。紙の上を鉛筆が滑るときに立てる音だ。
オーガストはこの音が好きだった。トニーの立てる音だからだ。彼が鉛筆でスケッチをするときに聞こえてくる音。よどみなく、シュッと長いストロークだったり、小気味いい、シュシュッという短いストロークだったりする音の数々。これで彼は何かを描いているのだ。
「今日は何を描いてるんですか?」
「本当に基礎の基礎だよ」
見せてくれた紙には、何本もの線が所狭しと並んでいる。長いもの、短いもの、丸、三角、四角。グラデーションのように濃淡のついた部分もあれば、網掛け状に線を重ねたものもある。
「やっと頭にあるものと手で描くもののギャップが埋まってきた感じかな」
そういう彼の手は、以前テロリストから受けた拷問の後遺症が伺えた。「指がね、まだ上手く動かないんだ」と言った彼の横顔は、悲しげにも、すこし楽しげにも見えた。オーガストはそれを聞いてカッと頭に血が上ったが、すぐにトニーに諌められた。彼曰く、リハビリですこしずつ前の動きを取り戻してきているのだから、もう過去のことは忘れよう。とのことだった。
「なんだか学生時代に戻った気分なんだ」
石膏像を相手に毎日デッサンをしていた時代とか。と、彼は言う。それですこし楽しげに笑うのだから、この人は強いとオーガストは思った。
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あれから一年経った。
オーガストは、CIA傘下のIMF預かりとなり、贖罪として、いまだ捕まらない悪の芽を摘む任務についている。ジョン・ラークとして得た犯罪やテロリストたちの情報網は、計り知れない価値を持つのだから、それを利用しない手はないと、上の者たちは彼の処遇をそう決めた。
トニーは、そんなオーガストについてIMFに入ることを決めた。主に後方支援だが、技術面でサポート出来ることがあれば彼らを助けた。
二人とも、CIAの監視がついていることや行動範囲を制限されることを除けば、ほとんど以前と同じように生活することが出来た。オーガストの自宅は処分されたが、トニーの自宅はまだ残っていたし、なかの家財道具一式もまだそのままだった。今度こそ同棲生活ですね、と言うオーガストが嬉しそうだったので、トニーはCIAから盗撮や盗聴されるだろうことを黙っていることにした。彼にも薄々分かっているかもしれないが。
こうなる前に、オーガストとトニーの関係は追求された。そして、この二人を一緒にしておくことが、オーガスト・ウォーカーという武器を上手くコントロール出来る最大の要因だということを理解してもらった(させた)ので、二人はいま一緒に暮らしている。
「愛の勝利ですね」
「お前という爆弾を爆発させないための措置だよ、たぶん」
冗談交じりに言った台詞だったが、あながち間違いでもない。オーガストは一度、世界を壊さんと大規模なテロ計画を企てた身だ。その起爆スイッチがトニーの喪失だというのならば、彼には前線から退いてもらい、オーガストの監視役として一緒にしておいたほうがいいとされたのだ。「僕と彼は付き合っているのだけど、いいのかな、倫理的に」という疑問は、ベンジーの「おれたちも監視してるからいいんじゃないかな」というゆるい回答になって返ってきた。
「もうオーガストにジョン・ラークとしての活動は無理だしね。資金は凍結されてるし、首にチップも埋まってるし、下手に動くとほら……」
ベンジーが首を掻き切るジェスチャーをする。そう、下手に動けば、オーガストは暗殺対象とされ、処分されるのだ。そういった緊迫感はあるが、おおむね、トニーはオーガストとの日々を穏やかに過ごしていた。
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「今度、君の顔を描いてみたいな」
スケッチの続きを描きながら、トニーがオーガストに「いいかい?」と尋ねる。以前の彼であれば二つ返事で了承しただろうが、いまの彼は消極的だった。
「こんなおれを描いてどうするんです?」
彼の顔には、まだ傷跡が残ったままだった。何度かに分けて整形手術を行い、これから以前の顔に近づけていくとはいうものの、現段階では、右顔面が酷く焼けただれたときよりすこしましになった程度だった。
「いまの顔も好きなんだ」
「おれは嫌いだ。あなたの褒めてくれた顔じゃない」
「そんな、男ぶりが上がって素敵だぞ、オーガスト」
トニーは、ふてくされるオーガストの顔に手をやった。左手で彼の右頬を撫ぜ、ざらざらとしたおうとつを楽しむ。手触りは、最初の頃よりもすこしずつよくなって来ている。彼の身体は回復しているのだ。「君が生きている証って感じがするよ」それが何より嬉しかった。
オーガストは、トニーに撫ぜられて気持ちよさそうにしている。まるで大きな犬のようだった。そういえば、彼には噛み癖があったな、と思い出し、トニーはちょっと赤くなった。暗に、夜の情事を思い起こしてしまったからだ。
そんなトニーの内心も知らないで、オーガストは目を閉じてうつらうつらし始めている。あの事件以来、体力の消耗が激しいせいか、よく眠るようになった彼。「眠いのならベッドへ行こうか?」と言うと、「仮眠程度ですよ……ソファでじゅうぶん……」と返ってきたので、トニーは作業部屋にある三人掛けの古いソファへとオーガストを導いた。むかしはここにモデルを寝そべらせてデッサンをしたな、などと思い出しながら。
ソファに寝転がったオーガストは、すぐに寝息を立て始めた。そうして、その穏やかな表情を、もちろんトニーはスケッチしたのだった。
そのスケッチは、後日ベンジーに見つかり、「あいつもこんな穏やかな顔するんだね」と言わしめた作品となった。