//髭剃りとキスと
髭を伸ばしはじめたとき、周囲の人間には「似合わない」といって止められた。色男が隠れてしまうぞ、とか、せっかく綺麗な顔をしているのに、とか。俺の顔立ちは、周りが放っておかないほど、たいそういいらしい。ギリシャ彫刻のような、と称されることもあるほど整っているようだった。自分では、どうでもよかった。仕事のときに、それで舐められるからだ。情報を引き出すために尋問するにあたっても、拷問するにしても、「こんな顔のいいお坊ちゃんに話せるか」という、余計な反発を生んでしまうのだ。反発はいらない。仕事の邪魔になるだけだ。それで、生まれもった顔を取り替えるわけにはいかないから、とりあえず、髭を伸ばしはじめた。
最初は、無精髭のように伸ばしっぱなしにしていたので、顔の下半分が隠れたし、貫禄もついたと思っていたが、あるとき鏡を見て「犯罪者がいる」と思ったので、すこしは整えるようにした。身の回りに気の使うこともできないほど逼迫したテロリストに間違われるのはごめんだった。そうして、上唇を覆うシェブロンとトリミングした無精髭みたいな、ちょうどいい形に落ち着いた。「顔が隠れてもったいない」といわれることもあるが、唇の形が隠れるので、これは結構、自分では気に入っている。
だが、世の中は広いもので、伸ばしっぱなしの無精髭でも、魅力的に見える人物もいるのだ。たとえば、トニー・メンデスとか。彼は、仕事に熱心なあまり身の回りを整える暇がないというタイプの仕事の虫だった。ぼさぼさで手入れの行き届いていない髪に、顔の下半分が隠れるほど放っておかれた無精髭。一歩間違えれば不審者のていだというのに、なぜか不思議と愛嬌がわいてしまう。上背があって、がたいもいいので、熊のようだ。それなのに、彼の仕事は書類などの偽造が主なので、大きな体を丸めてちまちまと作業しているところなどを見ると、ギャップに可愛らしさを感じてしまうのは俺だけではないはずだ。俺は彼を「先輩」とか「メンデス」とか、たまに二人っきりのときは「トニー」と呼んで愛おしんでいる。そう、俺は彼と付き合っていた。
職場恋愛のいいところは、朝、一緒に出勤できるところだろうか。今朝は司令を受け取りに本局へ向かう用事があったので、トニーと一緒に出勤できる。半分同棲のような格好でトニーの家に転がり込んだ俺は、すっかりバスルームの一角を占領している自分の洗面道具を見つめながら歯を磨いていた。トニーは髭を剃らないので、シェーバーも、ローションも、ぜんぶ持ち込んで置きっぱなしにしている俺のものだった。一度、「髭剃りはどうしてるんですか」と聞いたら、「さすがに伸びすぎだと思ったら切るよ」と返された。なるほど、長いと剃るではなく切るになるのか、と思った。そんなわけで、髭切り用のハサミも置いてある。
「伸びたな」
後ろからトニーの声。鏡に映る彼は、起き抜けのパジャマ姿で、ぼさぼさの髪がさらにあっちこっちに跳ねていた。「何がです?」と歯ブラシを咥えたまま喋ると、「髭が」と返ってきた。たしかに、ここ最近出張に出ていたせいか、面倒で整えていない。出張、という名の追跡任務のことだが。口をゆすいでトニーに場所を譲る。彼も自分の歯ブラシを取り出して、身支度をはじめた。「着替えたら整えてやるから待ってろ」といわれ、俺は上機嫌で返事をした。今日はゆっくりできるらしい。トニーは、朝の時間がたっぷりあるときは、気まぐれに俺の髭を整えてくれた。芸術家肌の彼の手にかかると、自分では整えにくい左右対称のシェブロンもきっちりと美しく揃えてくれるので、俺は気に入っていた。着替えながら鼻歌でもうたいたくなった。
「おいで」
バスタブの縁に座って、彼に身を任せる。シェーバーを手にしたトニーが目の前に立つ。俺はちょっと顎を上げて、彼が剃りやすいように喉を晒した。刃物を持った相手にこんなに無防備になれるのは、この瞬間だけだ。シェーバーにトリマー用のコームをセットして、トニーが俺の髭を整え始める。最初はトリミング。次に、首元や頬に生えた伸びすぎの髭を剃る。喉のあたりをシェーバーが通り過ぎるたびに、ひやっとするような感覚。身を任せていても、このときばかりは生理的な反射が出てしまう。最後に、シェブロン。上唇の上で、コームを取り付けたシェーバーを慎重に操るトニーは、集中していて眉がすこし寄っている。癖なのか、無意識なのか、半開きの唇からのぞく白い歯。そんな姿がセクシーで、俺はいつもこのとき口の端を上げそうになって怒られる。「動くな」って。顎を支えられて、顔が間近にあって、キスをするときのような格好だ。それをいうと、二度とやってくれなくなりそうなので、いわずに心のうちにとどめておく。「終わった」という合図が出るまで、俺は彼の顔を見つめ続けた。
「上機嫌だな」
シェーバーを洗うトニーにそういわれ、俺は「もちろん」と答えた。「あなたに髭剃りしてもらうの、けっこう好きなんです。綺麗だし、愛着がわきますね」「何に」「髭に」「そうか」そっけない会話だったが、彼がふふ、と微笑ったのが見えた。彼も、俺の手入れをするのは好きなのだと思う。トニーは、自分がどれだけ魅力的なのかわかっていない。代わりに、俺を身奇麗にさせて送り出すのがいいらしい。「君はうつくしいから」とは、彼の言葉。俺よりトニーの方がずっと美しい。それが愛情というフィルター越しに見える姿であっても、そこらじゅうの人間に知らせて回りたい。けれど、ほんとうは誰にも知られたくない。もし、トニーの魅力が世界中の人間に知れ渡ったら、恋敵が増えてしまう。贔屓目なしに。それはごめんだった。彼が振り向いて尋ねる。
「さて、朝食はどこで食べようか」
俺はそれには答えず、彼の唇を奪う。さり、と髭同士が触れる感触。トニーが驚いてシェーバーを取り落とす音がバスルームに響いた。剃りたての肌に感じる彼はいつもより距離が近いように思える。ほんの数ミリの距離でも、俺にとっては大きな一歩だ。前は、キスをするたびに拒まれていたが、今はもう抵抗されない。諦めがついたのか、慣れたのか。どっちにしろ、トニーは俺の腕の中におさまってくれていた。彼のほうが身長がすこし高いので、背伸びをする格好になるのがくやしい。手をとってバスタブへ導く。さっき俺がしていたように、縁へ腰掛けさせると、俺は彼に覆いかぶさって唇をむさぼった。
「ふ、んん、オーガスト……」
息継ぎの合間に呼ばれる名が好きだ。自分のほんとうの名前とは違うが、まだ彼にはいっていない。いうつもりもなかった。彼がオーガストと呼ぶならば、それがおれのほんとうの名前になる。くちづけに応える彼が、俺の上唇と髭を甘噛みしてきた。反撃のつもりなのだ。けれど、体勢は俺のほうが有利だ。片手で顎を掴み、口を開けさせて舌を差し込む。上顎のつるつるとしたところをぞろりとくすぐれば、彼はとびきり色っぽい鼻声で応える。たまらなくなって、口の中に溜まった唾液を注ぐ。こくり。彼がちいさく喉をならして嚥下する。もう止まれなくなりそうだったが、時間切れだ。名残惜しい唇を離す。
「残念。時間です」
「……お前のそういうところが好きだよ」
皮肉でいわれても、好きという言葉はありがたい。トニーは俺を軽く睨みつけてから、床に落ちたシェーバーを拾った。続きはまた帰宅後に。というと、「残業してやる」と返ってきたが、彼がそうしないことは分かっている。きっと夕方迎えに行けば、今日の分の仕事を終えて待っているはず。何だかんだいって、彼だって俺のことは好きなのだ。